香月孝史が舞台『すべての犬は天国へ行く』を評する
乃木坂46が舞台『すべての犬は天国へ行く』で手にした、グループとしての強靭な武器
この陰鬱で閉塞的、かつ秀逸なコメディである戯曲は、「アイドルが演劇に挑戦する」ことに奉仕してくれるタイプの作品ではない。むしろ、まだ俳優として途上の段階にある彼女たちがキャストになることで、救いのなさとコメディを両立させることの難しさをストレートにさらすものでもあった。そしてまた、そうした戯曲だからこそ、東風万智子や猫背椿、柿丸美智恵、ニーコ、山下裕子、鳥居みゆきといった客演陣の力は不可欠なものとなる。より正確にいうならば、この舞台は実質的に「乃木坂46主演+助演女優」による作品ではない。というのも、キャスティングに関して乃木坂46のメンバーは特権的な位置を与えられていないのだ。メンバーの出演頻度を優先して配役が行なわれているわけではないし、ラストシーンを飾る5人のうち4人は乃木坂46のメンバーではない。また、そのラストを含めてこの作品中で特異な存在感を与えられ印象的な歌唱シーンのあるデボアの役は、乃木坂46メンバーではなく鳥居によって演じられている。このことは、乃木坂46の舞台公演という縛りがある中でも、アイドルを主演にすることよりも戯曲と演出を尊重しようとする意図が感じられるものだし、またそうしなければ成り立たない作品であることも意味している。乃木坂46が主体となる公演である以上、企画そのものの主役が乃木坂46であることは揺らがないが、この公演で行なわれているのは、乃木坂46のメンバーがいかに戯曲や演出に奉仕できるのか、というレッスンであるように見える。その試みはグループとしての野心を感じさせるものだし、その野心を一方で支えながらKERA戯曲に挑む演出、スタッフ、客演陣に対しても多大な敬意が払われるべきものだろう。
アイドルをアイドルとして活かすための演劇ではないこの企画は、確かに彼女たちの俳優としての未熟さもはっきり見せる。しかしまた、そうした場だからこそ彼女たちの現在地をはかることができるし、その作品で見ることができた輝きは、アイドルという枠組みの中とは異なる価値観の場に出た時の、武器を探るためのきっかけになるものだ。『すべての犬は天国へ行く』で唯一の「部外者」である早撃ちエルザを演じた井上小百合や、もはや形骸化した檻でしかない「男」の影をまとって売春宿を成り立たせるキキを演じた桜井玲香らのコメディへの順応には目を見張るものがあった。こうしたセンスの発掘は、おそらくは現段階の技量に対してハードルの非常に高い戯曲に触れたからこそ生じたものだろう。この野心的な企画は継続されなければこれらの発掘は実を結んでいかないだろうし、またこのような性質の演劇が乃木坂46の伝統になっていくならば、グループの武器としてきわめて強靭なものになる。たとえばこれは、乃木坂46結成初年度でやろうとしても成立しなかった作品のはずだ。それを考えれば演劇を志向するグループとしての乃木坂46が、段階を踏みながら確かに歩を進めようとしていることがわかる。その点では、戯曲選びは今後も大きな鍵となるし、今回の『すべての犬は天国へ行く』は、乃木坂46の野心的企画にとって非常に良いチョイスだったように見える。そして、戯曲として、演劇として『すべての犬は天国へ行く』が抜群に面白いのだと示せたことで、その第一歩は順調に踏み出せたのではないだろうか。
ただし、これはアイドルから「脱する」ことで成し得た企画ではない。そうではなく、「アイドル」というジャンルを長期的に育んでいくうえで、このようなベクトルでエンターテイナーとしての熟成を目指すこともできるのだという、ひとつの可能性の提示である。「アイドルのイメージを壊す」という常套句は、ある意味ではアイドルというジャンルそのものに限界を設けてしまう表現だ。実際、メンバーにとって今回のような経験値は乃木坂46に所属しているからこそ可能になったもののはずだ。乃木坂46が今回の『すべての犬は天国へ行く』で足を踏み入れたのは、「アイドル」の枠組みを壊すことやそこから脱することではなく、アイドルという枠組みが手にすることのできる幅を拡張させるための入り口なのだろう。現時点で見える個々人の表現の弱さなどの食い足りなさはいわば、必要かつ順調な第一歩としての未熟さなのだと思う。この公演に続く企画が組まれ、乃木坂46独特の伝統を紡いでいくのを待ちたい。
■香月孝史(Twitter)
ライター。『宝塚イズム』などで執筆。著書に『「アイドル」の読み方: 混乱する「語り」を問う』(青弓社ライブラリー)がある。