シンプリー・レッドのギタリスト鈴木賢司が語る、在英27年のキャリアと音楽シーンの変化

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「日本にいたときとはまったく違うモノの見方、音楽の感じ方が出来るようになってきた」

ーー鈴木賢司さんご自身のキャリアについても聞かせてください。10代の頃から天才ギター少年として注目を集め、’83年、19歳でレコードデビュー。華々しいスタートだったわけですが、87年にジャック・ブルースと共演したことをきっかけに渡英。これだけでもすごい人生ですよね。

鈴木:レコードを出す前は「TVジョッキー」(‘71年〜‘82年にかけて放送されたバラエティ番組)なんかに出て学生服姿でギターを弾いたんですが、もしかしたらその頃がいちばん有名だったかもしれないですね(笑)。それからレコードを出して、ジャック・ブルースに勧められてイギリスに行くことになって。でも、当時のイギリスの音楽シーンは僕の想像とはぜんぜん違ってたんですよ。ちょうどダンス・ミュージックが出始めていて、楽器を弾く人はぜんぜんいなかったんです。

ーー80年代後半のハウス・ミュージック、アシッド・ジャズのムーヴメントですね。

鈴木:ええ。いわゆる「セカンド・サマー・オブ・ラブ」の時期で、アメリカからエクスタシーというドラッグが大量に流れてきて。仕事もない、お金もない若者が空きビルに侵入して、DJとスモーク・マシーンでパーティをやってたりするんですよね。そこで必要されるのは情緒のある音楽ではなく、ダンス・ミュージック。テクノ、レイヴの先がけだったわけですが、そのシーンを目の当たりにしてしまったんです。僕としてはソロ・ギタリストとしてブルース、ロックをやろうと思ってイギリスに渡ったんですが、そういう音楽をやっていたのは僕よりも2世代くらい上の人たちで、「すでに完成された音楽」という扱い。アメリカのLAなどにはいつの時代もロックが存在していますが、イギリスはぜんぜんそうじゃなかったんですよね。その頃は「イギリスに来るタイミングを間違えたかもしれない。もうギターは必要ないんじゃないか」とまで思いました。日本はまだバンドブームだったから、「日本で活動していたほうが良かったかな」とか。

ーーいきなり出鼻を挫かれた、と。

鈴木:ただ、僕はやっぱりギタリストですからね。いままでとは違うギターの使い方は出来ないだろうかと考えていたときに、クラブで偶然、Bomb The Baseのティム・シムノンと会ったんです。彼はエレクトロのオリジネイターみたいな存在だと思うんですが、「自分の楽曲にギターを使いたい」と言っていて。そこから、ダンス・ミュージックにギターを合わせるということを始めるんです。まだストーン・ローゼズが登場する前なんですけど、DJのターンテーブルとギターで、ロンドンのクラブでギグをやってたんですよね。そこによく来ていたのが、ジーザス・ジョーンズのメンバー。彼らの1stアルバム(『リキダイザー』/‘90年)にはスペシャル・サンクスとしてBomb The Baseの名前が入っているくらいなので。そういえばこの前、布袋寅泰さんのライブでジーザス・ジョーンズのシンガー(マイク・エドワーズ)に偶然会ったのですが、そのときも「(Bomb The Baseに)すごく影響を受けた」って言ってましたね。

ーーBomb The Bassの活動はその後、どう展開したのですか?

鈴木:ちょうど湾岸戦争(‘90〜‘91年)があったんですよ。その影響で“Bomb”という言葉が使えなくなって、結局、ティム・シムノンの名義でリリースすることになったんです。そのアルバムの曲がヒットして「TOP OF THE POPS」(イギリスBBCで放送されていた生放送の音楽番組)で演奏したんですが、ちょっとツイてなかったかなって思いますね、いまになってみると。MASSIVE ATTACKも“ATTACK”が使えず、MASSIVEという名前で活動してた時期もあるんですよ。

ーーなるほど…。ただ、イギリスのシーンに生まれた新しい潮流をリアルに体験したわけですよね。

鈴木:そうですね。日本とはまったく違うシチュエーションに巻き込まれて、そこにどっぷり浸かって。
そのときに浄化されたところもあると思うんですよ。日本にいたときとはまったく違うモノの見方、音楽の感じ方が出来るようになってきたというか。そこには気候、食べ物、文化も含まれると思いますが、その時期を通過したことによって、イギリスのシーンに適応出来たんじゃないかな、と。いまではそう思ってますね。

ーー実際、その後は様々なアーティストの作品に参加してますよね。『Seal』(Seal)、『Diva』(Annie Lenox)、『Corinne Bailey Rae』(Corinne Bailey Rae)などジャンルもすごく広くて。

鈴木:もともと僕は音楽的には雑食なんです。ギターを弾く理由も、いろんなジャンルのなかで自分のフィルターでろ過した表現をしたいということなんです。最初はブルース・ロックが中心でしたが、ヘヴィメタルなども聴いていたし、イギリスに行く前にニューヨークでヒップホップ・カルチャーも経験していて。イギリスに行ってからも、ブラック・ミュージックを聴き始めたり、貪欲に好きなものを取り入れてきました。日本にいた頃の僕を知っている人は「何でシンプリー・レッドなんだろう?」といまだに不思議に思っているかもしれないですが、80年代後半にDJカルチャーに触れて、その後もいろいろな音楽を取り入れながら、いまの自分になったんですよね。

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ーーシンプリー・レッドには、どんな経緯で加入したんですか?

鈴木:屋敷豪太さんに誘ってもらったのが、直接のきっかけですね。豪太さんは僕の半年後くらいにイギリスに来たのですが、ソウル・Ⅱ・ソウルのシングルを手掛けたり、僕もすごく影響を受けていて。その後、豪太さんはシンプリー・レッドにドラマーとして加入して、アルバム『ブルー』ではCO-PRODUCERとして関わっています。で、あるときに豪太さんから「シンプリー・レッドのミックが、アリーナやスタジアムなどの大きな舞台をしっかり使えるロック・ギタリストを探している」という話があって。実際に参加したのは‘98年からですね。

ーーシンプリー・レッドは‘80年代から世界的ヒットを出し続けていますが、賢司さんはどんな印象を持っていたんですか?

鈴木:日本を離れる前に、当時開局したばかりのFMヨコハマで番組を持たせていただいていて、そこでシンプリー・レッドの初期のヒット曲もかけていたんです。日本でもブルー・アイド・ソウルのバンドと言われていて、ホール&オーツ、カルチャー・クラブと並んで知名度があって。ミックはシルキーな声で、楽曲も洗練されていますが、じつは“セックス・ピストルズの最初のコンサートを見た30人のうちのひとり”というバックグラウンドもあるんですよね。そういうことも僕が長い間ギタリストとして(シンプリー・レッドに)収まっている理由だと思います。

ーーなるほど。

鈴木:さきほども「ミック自身が歌う理由がわかっている」と言いましたが、彼の根本には“自分たちは支配されている”という考えがあるのだと思います。本来はその土地に根差した生活、文化があるべきなのに、いまは資本主義のルールが第一になってしまっているし、そのことにみんなも気付いてほしいと。ミックは幼いころに貧しい生活をしていたようで、「どうしてこうなっているんだろう?」という疑問がつねに表現の根本にあるんですよね。

ーーレヴェル・ミュージックとしての側面がある、と。

鈴木:そうですね。彼の音楽の要素にパンク、レゲエ、ファンク、ブルースが入っているのも、そういうことだと思います。

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