リアルサウンド映画部 記事先行公開Part2

田中宗一郎が語る、『アベンジャーズ/エイジ・オブ・ウルトロン』とアメコミ映画の現在

『スター・トレック イントゥ・ダークネス』IMAX予告

「J.J.版『スタートレック』になかったものが『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』にはすべてあった」

――本国では来年5月公開の『キャプテン・アメリカ/シビル・ウォー』ですね。監督も『ウィンター・ソルジャー』と同じロッソ兄弟。

田中:これは『ウィンター・ソルジャー』と同じか、それ以上の期待をしたい。『アベンジャーズ』シリーズの場合、どうしても究極のエンターテイメント作品にしなくちゃいけない、ならざるを得ないという縛りがある。だからこそ、ジョス・ウィードンは映画作家としての矜持と、スタジオや観客からの期待の狭間で疲弊して、この段階でシリーズを去っていくことを決意したんだと思う。でも、本陣である『アベンジャーズ』がその役割を引き受けてくれていることで、他のマーベル作品はかなり作りやすくなっているんだよね。それは、昨年公開された政治サスペンスとしての『ウィンター・ソルジャー』や、B級スペースオペラとしての『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』の見事な出来からも明らか。スーパーヒーローが活躍するというポイントさえ押さえておけば、もはやどんなジャンル映画でも作ることができる。むしろ自由度が増している。この辺りは『マン・オブ・スティール』以降のクリストファー・ノーラン/ザック・スナイダーのDC映画陣営とはすごく好対照なんだけど。だから、きっと『シビル・ウォー』は『ウィンター・ソルジャー』以上に高度な政治サスペンスとしてより踏み込んだ作品になるんじゃないかな。

――『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』が見事な作品だったというのはまったく同意ですが、タナソウさんがあの作品にノッたというのはちょっと意外かもしれない。

田中:あの映画、トレッキー的視点からすると、ほとんど『スタートレック』なんだよね。俺、根っからトレッキーだからさ(笑)。『スタートレック』っていうのは、その時々のアメリカという国家の外交政策を反映してきた作品なんだけど、その上で、アメリカのもっともリベラルな側面を象徴する作品でもあった。1966年に作られた最初のTVシリーズから、旗艦のブリッジにはすべての人種/民族が揃っていて、それぞれの人種/民族には長所と欠点の両方があって、でも互いがそれを認め合うことでユニティをなし得るってことをポジティブかつ楽観的なトーンで描いてきた。ある意味、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』は、その理念を継承した作品なんだよ。70年代後半のヒットソングが流れまくるでしょ? それにも意味があって、『スタートレック』は1966年から69年にかけて最初のテレビシリーズが作られて、その後、ジーン・ロッデンベリーっていうプロデューサーが何度も続編の企画を立ち上げるんだけど、ずっと企画倒れに終わってた。それが、1977年に『スター・ウォーズ』が大ヒットしたことで生まれたSF映画需要のおかげで、1979年にようやく映画版の一作目が作られて、シリーズとして再始動することができたという歴史がある。

――映画では主人公の地球での幼少期の思い出として当時のヒットソングが流れますけど、全部が繋がっているんですね。

田中:一度は断絶した、世代間の継承というメタファーを汲み取ることも出来なくはない。一方で、2009年と2013年にJ.J.エイブラムスがリブートした『スタートレック』は、本来『スタートレック』が持っていた思想や理念や個々のキャラクター属性をまったく継承してなかった。「これさえ入れておけば、オタクは喜ぶだろ」って感じの小ネタを全編に散りばめているだけで、『スタートレック』の一番の肝をすべてないがしろにした作品でもある。最重要モチーフのひとつ、コバヤシマル・テストの解釈とか本当に酷くて。本来、コバヤシマル・テストっていうのは、論理と東洋的なスピリチュアリティの表象であるスポックが開発した、死や敗北を受け入れることを通して、リーダーとしての責任意識や覚悟を試すためのテストで、ボーンズが表象するピューリタン的なヒューマニズムと対置された物語装置なんだよ。で、必ず絶対に失敗するようにプログラムされてる。ところが、そのどちらにも傾くことのない矛盾と楽観主義の権化であるキャプテン・カークが、誰も思いつかなかった荒唐無稽なアイデアによって、その二項対立を超越するっていうプロットなんだよね。つまり、カークというのは、論理は解決へと至る最初の入口でしかない、むしろどこまでも向こう見ずに解決へと到達しようとする情熱と、ロジックや倫理を超えた大胆なアイデアこそがすべてを超越するっていう、良くも悪くもまさにアメリカ的な理念の象徴なんだけど、J.J.チームの脚本と演出だと、ただの小手先のチートにしか映らない。他にもスポックの描き方とか、まだ未熟な青年時代を描いているってことを差っ引いても、あまりに薄っぺらで、とにかくトレッキーの気分を逆なでするようなポイント満載なんだ。

――世代的に『スタートレック』の最初のテレビシリーズを通ってこなかった自分としては、J.J.の『スタートレック』もわりと好意的に受け止めているんですけどね。

田中:正直、受け入れがたい(笑)。でも、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』には、俺みたいなトレッキーがずっと鼓舞されてきた『スタートレック』の理想的なヴィジョンと楽観的なトーン、ユーモア精神のすべてがある。どちらも基本的にはB級スペースオペラだし、コメディ要素も満載だし。で、どちらも理想的なアメリカそのものなんだよね。

――それを踏まえると、そのJ.J.が『スター・ウォーズ』の新作を撮っているというのは、なかなか由々しき事態なのかもしれないですね。予告編を観る限りでは「もう盛り上がる要素しかないじゃないか!」って興奮するんですけど。

田中:いや、非常に悩ましいよ(笑)。そうやってマニアが喜ぶ小ネタを表面的にちりばめていくのがJ.J.のスタイルだから。ただ、もともと『スター・ウォーズ』ってすごく特殊な作品ではあって。特に1977年において、あそこまで勧善懲悪な構造を持つ物語をやったっていうのが。それ以前の60年代以降のSF作品に代表されるカウンターカルチャー/アンダーグラウンドカルチャーの表現の文脈から明らかに断絶がある。1977年にはもはやそういうプレモダンな勧善懲悪の世界というのは無効になってたはずなんだけど、何故か『スター・ウォーズ』からは、また勧善懲悪が許されるようになった。そこに関しては、ずっとすごく不思議な実感がつきまとっているところもあるんだよね。

――なるほど。でも、だとしたら物語構造が複雑な『スタートレック』の扱いは間違えたかもしれないJ.J.も、単純な『スター・ウォーズ』では間違えないかもしれないと、一応期待をしながらこのインタビューを終わっておきたいんですけど(笑)。

田中:でも、すさまじく不安だよ(笑)。

(取材・文=宇野維正)

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