『Obscure Ride』リリースインタビュー

ceroは日本のポップミュージックをどう変える? 「2015年の街の景色を音楽にすることができた」

 

「『Eclectic』というすごく冷たい質感をもったエロティックで孤独なアルバムを、人の世に下ろしてあげたかった」(髙城)

――その結果、これまでのceroの作品と比べても、わかりやすく元ネタをたどりやすい作品になっていると思うんですね。それは、冒頭に挙げたようにディアンジェロしかり、そことも当時人脈が繋がっていたア・トライブ・コールド・クエストしかり、あるいは2000年代に入ってからの小沢健二しかり。ただ、そういう作品の在り方って、今の日本のメインストリームの音楽においてはかなり希少なものとなったし、そういう意味でも非常に反動的かつ冒険的な作品になっていると思うんです。

髙城:そこに関しても、今回はちょっと考え方を変えてみたんですよね。いわゆるサンプリング的なことで言うと、これまではフレーズをサンプリングしていくという意識が強かったんです。たとえば、「雨」についての曲だったら、別の「雨」について歌ってる曲のフレーズを入れ込んでみたり。そういうやり方であっちこっちからいろんなフレーズを持ってきて、自分たちの音楽を解読させるような仕掛けをしていた。でも、今回何を意識の中でサンプリングしてるかっていうと、フレーズじゃなくて音の構造なんです。指摘されたように「ticktack」ではア・トライブ・コールド・クエストの「Electric Relaxation」の3小節ループを参照していますけど、コードも違うし、当然リリックの内容も全然違うし。そうやって全然違う日本語を乗っけてみた時に、「それでもブラックミュージック的なフレイバーというのは残るのか?」っていう、そういう実験的な意味合いが強くて。

――なるほど。これ、改めて確認したいんですけど、皆さんはここで話題に出てきたような90年代の音楽をリアルタイムで聴いていたわけではないですよね? いくら音楽的な環境で育ったりとか、あるいは早熟だったとしても、当時は10歳前後とかだったわけで。

髙城:いや、基本的に後追いですよ(笑)。00年代前半頃は、その頃にバーッと出てきてたUSインディーのバンドやシンガーソングライター、彼らの中には音楽的におもしろいアイデアをたくさんもっていた人が多くて、そっちの方を夢中に聴いていて。そういうものと、自分たちの親の世代が聴いてきたはっぴいえんどに代表される日本の音楽、そこにある共通性みたいなものを鳴らしたいと思って、その間にいるのが自分たちだってことを証明したいと躍起になっていて。でも、その作業は一段落したなと思っていた頃から、エリカ・バドゥとかディアンジェロのような90年代後半から00年代にかけてのブラックミュージックに引き寄せられていって。次に自分たちが着手すべきところはそこなんじゃないかって。それで、後からそのあたりのミュージシャンの作品を集中的に聴くようになっていったんですよね。

――実はブラックミュージックの尖ったところにいる人たちと、ロックの尖ったところにいる人たちって、日本の一般的な音楽ファンが思っている以上に歴史的にも要所要所でクロスしているし、お互いに影響を与え合っているんですよね。最近でも、ケンドリック・ラマーは新作でレディオヘッドをサンプリングしていたりーー。

荒内:あのアルバムでケンドリック・ラマーはスフィアン・スティーブンスもサンプリングしてましたよね。

――そうそう。だから、ざっくりとUSインディーからはっぴいえんどを経由してのブラックミュージックにどっぷりって流れは、実は全然突飛なことではない。今の日本では誰もいない場所かもしれないけど、その場所にはある種の正当性があると思うんですよ。

髙城:そうですね。「誰もいない場所」というのは意識していました。海の向こうではロバート・グラスパーだったり、ホセ・ジェイムスだったり、フライング・ロータスだったり、そういう音楽的な盛り上がりがここ数年続いていて。単に90年代や00年代のブラックミュージックを後追いしているだけじゃなくて、そういうリアルタイムの音楽にも自分たちはすごく興奮していて。

――今作に僕が入れ込んでしまう理由もまさにそこにあって。単にブラックミュージックの要素をネタとして放り込んでいるんじゃなくて、音楽的には現在のブラックミュージックの側に思いっきり足を踏み込んだ上で、日本人のミュージシャンにしかできないメロディや言葉をそこで立ち上がらせているところなんですよね。それは、当時ディアンジェロの『Voodoo』からの影響を日本のミュージシャンで唯一ダイレクトに鳴らしていた、ニューヨークに渡ってからの小沢健二の音楽に通じるところがあって。ceroは昨年末の『Orphans/夜去』で『Eclectic』の「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」をカバーしていましたけど、そういう表面的な事象を超えたもっと深いところで繋がっている気がしていて。

髙城:いや、『Eclectic』はすごいですよね。

――リアルタイムで聴いてました? あれは2002年の作品だから、当時はまだ高校生ですよね。

髙城:『Eclectic』はリリースされたタイミングで吉祥寺のタワーレコードで買った記憶があります。でも、本当のすごさに気づいたのはちょっと時間が経ってからでしたね。

――当時もそこそこ売れはしましたけど、ほとんどの批評家やリスナーがついてこれなかったんですよね、彼があの作品で本当にやろうとしていたことに。彼自身も、その後のライブであのアルバムの曲は「麝香」しかやってなくて、今ではあの作品をどう自己評価しているのかわからないところもあって。

髙城:「1つの魔法(終わりのない愛しさを与え)」をカバーしたのは、あの『Eclectic』というすごく冷たい質感をもったエロティックで孤独なアルバムを、人の世に下ろしてあげたいなっていう、ちょっと勝手な思い込みがあって(笑)。僕らみたいな普通の兄ちゃんたちが気さくに演奏してみたら、ちょっとはあのアルバムに違う方向から光を当てることができるんじゃないかなって。もともとは今回のアルバムの曲作りの合宿をやった時に、あくまでも習作としてセッションでやってみたものなんですよ。でも、あの曲を実際にやってみたことで、今回のアルバムの方向性がクリアになってきたところがあって。そういう意味でも、結果的に自分たちにとっても大きな意味を持つカバーになりましたね。

――『Eclectic』はリリース当時多くの人に突然変異のように受け止められていましたけど、実はその前に重要な伏線があって。小沢健二は1999年にモータウンから出たマーヴィン・ゲイのトリビュート盤で「Got To Give It Up」の日本語カバーをしていましたけど、そこで彼はブラックミュージックにとって主要テーマである性愛を、いかにニュアンスそのままに日本語にのせることができるかという実験をしていて。本当に今聴いても笑っちゃうほどエロい日本語詞なんですけど、それをさらに深く探求していったのが『Eclectic』だったと思うんですよ。

髙城:あぁ、なるほど。

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