新刊『僕たちとアイドルの時代』インタビュー

さやわかが語る、2015年の音楽文化と全体性「強度を一番先に取り戻したのはポピュラー音楽」

——そうしたチャートの機能を捉えた上で、SexyZoneやAKB48を写し鏡として、ミスチルが純粋に音楽性を追求している、とする見方は訂正したい、と?

さやわか:それはどうしても言っておきたかったことです。一部のひとは、「いや、ミスチルのほうが音楽として良いんだ」とか「SexyZoneのほうが売れたのだから音楽的にも良いんだ」という形で友敵理論を押し広げていこうとするんですけど、どっちだって良いし、どっちが上という話でもないんです。単に今の時代がどうなっているかを計るものとして、チャートが機能すれば良い。それともうひとつ、この本でも指摘したことで重要なのは、本当に人が音楽性の高さを重視しているのであれば、じゃあ別に売れなくても良いじゃん、ということになっちゃうんですよね。たとえばオリコンチャートは、これまで一回も音楽性の高さについて計ったことはないんです。常に売れているかどうかを計っている。なのに、そのチャートのなかでミスチルが1位にならなかったといって怒るのはおかしいと思う。もし本当に音楽だけが大事なのであれば、自分の耳に心地よく響くとか、あるいは桜井さんが好き、ということだけで満足できるはずなのに、結局はポピュラリティを求めているわけですよね。

——良い音楽はチャート上でも高い位置にいるべきである、という考え方は昔から根強くあるように思います。

さやわか:これはすごく難しい問題ではありますよね。90年代の半ばですかね、ピチカート・ファイヴの野宮真貴さんが、「フリッパーズギターが『恋とマシンガン』でオリコンチャートに入ったときに、やっと自分たちの好きな音楽がチャートに入ったと思った」という話をされていたんです。僕はそれってすごく象徴的な言葉だと思う。自分たちの信じた「良い音楽」があって、それでオーバーグラウンドに打って出ようってことをハッキリ志向したのが、90年代のあの辺の人たちだと思うんです。つまり従来の音楽家は「大衆音楽は大衆音楽としてあるが、そうではないハードコアな音楽はこちら側にある」という形で自分たちの価値を主張していたと思うんですけど、90年代に「これで世の中変えてやろう」といって出た結果、今のアーティスト信仰みたいなものと結びつく結果になった。

——たしかに1995年に小沢健二が紅白出場を果たした時、それを一つの達成とみなす意見はよく聞いたし、私も納得していたように思います。一方でさやわかさんの本では、2000年代以降は紅白に出ることのカウンター性が、あやふやなものになっていったと指摘しています。

さやわか:そうしたカウンター性は、小沢健二さんみたいな人が紅白に出たり、『Hey! Hey! Hey!』に出たりした頃には、まだ成立していたと思うんです。しかし亀田誠治さんがプロデューサーとして出てくる辺りから何かが変わっていったように思います。亀田さんは対立軸などはあまり重視していなくて、オーバーグラウンドの領域で単純に良い音楽を作れば良いじゃん、ということを信じているように思うんですよ。別にそこに政治性みたいなものはなくていい。もしくは、シーンの内部から変えていければそれでいい。彼の仕事は椎名林檎さんのものなんかが有名ですけど、彼女の音楽もそうだと思うんです。彼女はカウンター性みたいなものを、キャラクターとしてまとってはいるんだけど、それはみんなに望まれる価値としてのカウンター性ですよね。結果として、そのカウンター性というのは言ってみれば「カウンターキャラ」として、キャラクター化したものでもある。それは時代の産物なんだと思います。そうした変遷を踏まえた上で、アイドルがなぜ面白いかというと、かつてのカウンターカルチャー的な物語をやり直そうとしたからなんですよ。つまり、ライブハウスから出てきて、インディのレーベルと契約し、その後はメジャーのレコード会社からCDを出して、それがオリコンチャートの上位に駆け上り、最後は紅白に出るんだ、みたいな。これは矢沢永吉の「成り上がり」みたいなモデルであって、そんなフィクション性の高い、泥臭いものはダメだ、という考え方が90年代後半からゼロ年代頭くらいまでは支配的だった。ところが、いまのアイドルなんかは、紅白に出たいとか、オリコンの上位に入ったらすごいとか、普通に言っちゃう。音楽性を追究しようという流れが退潮した後に、みんなが感動する音楽の物語、成り上がりの物語を再生産するアイドルというジャンルが盛り上がったのは、すごく面白いことだと思います。

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