2ndシングル『無責任』リリースインタビュー
浜端ヨウヘイが語る、渾身のバラードが生まれた場所「“死にたい”とは“生きたい”という意味だと」
――浜端さん自身が、リミッターを外して冒険をした時期だったんですね。そうしたハードな時期に生まれた曲が、ピアノで歌い上げる曲になった理由は?
浜端:僕の思いをストレートに書いた曲は、ピアノでやりたいんです。というのも、グランドピアノで弾いていると、譜面立てがあって自分の顔が映る。それが自分と話している気分になるんですよね。過去の応援歌のようなものは、自分に向けて書いたところがあるので、自分に向かって話せないとだめだなっていうのはあります。
――これは作曲段階からピアノで書いた曲ですか?
浜端:はい。松山かどこかにツアー中だったと思います。メロディを思いついて会場入りして、リハーサル前にピアノを弾いたら、もう頭から最後までできていて、その日のうちにライブで歌いました。
――そうやって完成した曲は、確かに自分自身に語りかけている面はありつつ、リスナーに向けて歌っている印象もあります。
浜端:書き始めの頃は、自分に対してしか歌っていなかったんですが、環境や情報が変化していく中で、少しずつ聴いてくれている人に向かっている、というのは実感しましたね。特に山さん(山崎まさよし)の前座をさせてもらったときに、僕向きだった曲が別の方向性を持ち始めたなっていうのはありました。ただ、一番初めに自分に向かっているというのはぶれないようにしていきたいですね。
――なるほど。歌い初めのフレーズ「死にたい」というのはなかなか衝撃的だと思いますがーー。
浜端:確かに、“死にたい”って思うぐらいのことって、そんなにないですよね。僕はもともとポジティブというか、暗い方に全然考えない人間なんです。でも、消えたいっていうくらいの落ち込む時期はこの期間だけありました。そんな中で〈「死にたい」って書いて「生きたい」と読んだ〉ってフレーズができたんですよ。「死にたい」っていうのはうまく生きられないから死ぬのであって、本当はうまく生きたいんですよね。だから、「死にたい」というのは「生きたい」という意味だなぁと思って書きました。そういう歌をバラードかつ応援歌で……という曲のアイデアになりました。
――「無責任」が生まれた2013年といえば、音楽産業の低迷が何度もニュースになって、音楽を始めるのに不透明感があった時期ですが……。
浜端:当時、ライブでやっていく自信は出てきていたんです。各地方で回るエリアやルートができて、なんとかやっていけるという確信があったから、仕事も辞めてっていうとこまで踏み出せたんですよね。近くにいた先輩、たとえば花*花さんのように、ライブで日本中をまわるやり方が自分には合ってると思ったんです。直接お客さんの顔を見てっていう。結局は花*花のいずみさんがケツたたいてくれて、本格的に動いたんですけどね。
――なるほど。実際全国を回って、お客さんと交流する中で自信がついたんですね。今はテンポよくCDを出していますが、ライブ活動がベースにあってそこにCDが加わってくる感覚ですか?
浜端:そうですね。僕自身がライブしかやってこなかったというのもありますけれど、できるだけライブにCDのパッケージを近づけていきたい。やっぱりライブでの表現が主軸であるべきだとも思っているんです。その中で作品としてもこだわり、ライブとは違うところをみせないといけないですよね。
――今回の2曲目「Drivin’on the K」は50年代風のロックナンバーで、特にライブ感が出ていると思うし、3曲目「サヨナララバイ」は生っぽい歌で、ホームレコーディングのようにも聴こえます。
浜端:「サヨナララバイ」の音はそのように録りたくて工夫しました。普通にアコースティックギターとボーカルを別々に録ると、僕の声が大き過ぎるために、ギターの方のマイクが全部ひろってしまう(笑)。今回は4曲ともギター弾きながら歌ったんですけど、この曲はギターのマイクだけで録ったバージョンですね。
――すごい声量ですね(笑)。4曲目「タイトル未定」は、これが正式タイトルなんですね。この曲もキャッチーな仕上がりで、浜端さんは曲の中に自然とフックができるタイプなのかなと感じました。
浜端:これは最近ツアー中に書いた曲です。島根県に前乗りしてホテルに泊まったとき、朝からリハーサル入りするまでの間でしたね。僕、旅先でほとんど曲は書くので。そういうときに五線譜がないと、いつもメロディの音階をカタカナで書いて作るんですけど、それをそのまま歌ってみました。
――「ソラシドレミファレソーミ」というフレーズ、いいですね。シンガーソングライターの中にはどうキャッチーに曲を作るか悩む方も多いんですが、浜端さんはごく自然にみんなが歌いたくなるような曲を作っているように見えます。
浜端:僕が音楽をやりたいなと思った原点として、沖縄に住んだとき、みんなの中で歌ってみんなで歌ってた、というのがあるんですよ。それは根本的な部分で、ギターもって何度も沖縄に行ったし、結局移住しちゃった。そうした経験があるから、みんなで歌っているのを常にイメージしているんだと思います。