ダイノジ大谷ノブ彦『俺のROCKLIFE』インタビュー(前編)

ダイノジ大谷がロックを語り続ける理由「こっちだっていい曲だ、バカヤローって足掻きたい」

――それは、ラジオでリスナーと向き合う時に、大谷さんがあえて普通はかけないような曲をぶつける感じと通じますね。

大谷:罠をしかけて、かかったら「この曲もいいじゃん」って思わせたいです。たとえば僕は、twitterで時々、ジャニーズのことを音楽的に評価するんですね。そうすると、ものすごくRTされるんですよ。だから、RTを増やしたかったら、 ずっとジャニーズのことをつぶやけばいいんです。でも、それをやったら僕じゃなくなるし、逆にジャニーズの音楽を冒涜することになると思う。本当に真面目に聴いているのなら、彼らがどういうイメージでその音楽を作っているかというところまで向き合わないとだめだから。罠っていうと語弊があるかもしれないけど、どの音楽もフラットに聴いてもらって、そこから普段は聴いていない曲のかっこ良さを発見してもらえたらいいなと思います。

――なるほど。ここからは、本のテーマにもなっている大谷さんの音楽遍歴を探ってみたいと思います。そもそも音楽にハマったきっかけは?

大谷:中3の時にバンドブームが来るんですよ。クラスのみんなBOOWYやレベッカなんかを聴いていた。で、その頃に生まれて初めて友達の家に泊まりに行って、友達にパンクロックを教えてもらったんです。純粋に「こういうやり方あるんだ!」ってびっくりしました。全然、歌うまくないし、テレビで流れてる歌謡曲の方が芸として優れているのに、すごくかっこいい。で、みんなが好きだっていってるバンドじゃなくて、自分だけのバンドがほしくなった。それが自分のパンク的な活動になると思って。だからエレファントカシマシとか群馬のROGUEとか聴いて、これみんな好きにならないだろうから俺のバンド、っていう感じで、変わったバンドが好きになっていったんです。さらに、そのアーティストたちが影響を受けた洋楽を聴くようになって、 誰かがエルヴィス・コステロのことをレコメンドしていたんですね。スーツにメガネかけて漫才師みたいな格好しているのに、パンクロックで渋かった。で、これも俺のもんだなって思って、そこから一気に、スリッツとかトーキングヘッズとかどんどん掘り始めて、もう音楽が楽しくてしょうがなくなっていった。それが高校生の時くらいですね。

――かなり掘り下げていますね。大学時代はどうでしたか?

大谷:僕、大学で全然しゃべらなかったんですけど、唯一仲良かった2人がいて。ひとりが福岡出身でベタな博多人なんですよ。いまどきリーゼントみたいなやつで、めんたいロックとか教えてくれて。もう一人は東京の吉原が実家で、見かけはちょっとしょぼいやつなんだけど、とにかく音楽がすごく好きで。当時、彼に対して、「プリンスはあんまり好きじゃない」っていったら、すごい剣幕で怒ってきたんですよ。

――はははは。

大谷:そこから彼は音楽の師匠という感じになっていきました。エレファントカシマシのライブもそいつと行った。僕が持っているものと彼が持っているものを交換しあうようになったりして、そのうち授業のたびに「これ聴いた?」みたいな感じになりましたね。それから、御茶ノ水のレンタル屋のジャニスに行ったり、渋谷の中古レコード屋を回ったり……。20代前半は、お笑いライブとレコードとライブ、あとは映画館。わかりやすいですね(笑)。

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