『1995年』著者、速水健朗氏インタビュー(前編)
速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」
――当時はクラブシーンも盛り上がりをみせていました。
速水:僕はそんなに通ったりはしてないんですけど、本の中では下北沢のZooの話とかを書いてますね。でも当時の渋谷のレコード屋さん的な価値観って、クラブと結びついていたのは確かです。例えば、さっき言った渋谷のWAVEの2階の価値観は、ピチカート・ファイブの小西康陽がDJで使うみたいなことが、宣伝のポップに書かれている。まるで小西さんのレコード棚をのぞき見できるような場所でした。三宿のWEBで毎週小西さんはDJをやっていて、そこでは本当に間近で彼が何をかけているのか、ジャケを見せてもらったりもできる。すごく小箱でしたし。オルガンバーはもうちょっとあとの時代ですかね。
当時から小西さんのコラムは好きでよく読んでいたんですけど、よく覚えているのが山下達郎が「ダウンタウンへ繰り出そう」って歌っていた70年代には、東京には実際に繰り出すべき楽しい街はなかったけど、90年代の東京には、渋谷があるんだっていう内容。レコードを買う、クラブに遊びに行くみたいな生活が本当に体現できちゃうような街だった部分はありますね。
インタビューの冒頭で「みんな中々話さないんだけど、誰かが語っておかなきゃいけない」と前置きした上で、当時の東京における音楽シーンの状況について話してくれた速水氏。その内容は世間一般で語られる1995年の音楽シーン、ミリオンセラーが乱発し活況だったという『表の世界』の文脈とは距離のあるものだった。しかし「歌謡曲でもクラブ的でもない中間的な音楽」の誕生や「古いものと新しいものを同列に評価する」といった価値観は、Youtubeなどであらゆる曲を容易に視聴できるようになった現在にも通ずるものがあるのではないだろうか。インタビューの後半では、ヒットチャートと地方都市の関係、カラオケ文化の流行などについても語ってもらった。
(取材・文=北濱信哉)