『1995年』著者、速水健朗氏インタビュー(前編)

速水健朗が語る"1995年”の音楽シーン「中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった」

 2007年に『タイアップの歌謡史』で単著デビューを果たし、専門のメディア論や都市論のみならず音楽や文学、格闘技など幅広い領域を独自の視点で鮮やかに描き出す気鋭のライター、速水健朗。そんな彼が先日ちくま新書より最新作『1995年』を刊行した。1995年といえば阪神大震災やオウム事件といった歴史的惨事が起こる一方、ウィンドウズ95の発売などでインターネット元年とも呼ばれ「何かの終わり」「何かの始まり」と形容される年。戦後史の転機とも言われる1995年は音楽シーンにとってどんな意味をもった年だったのだろうか?  地元の新潟から上京し大学生だったという速水氏に当時のシーンを振り返りつつ、改めて論じてもらった。

――新書の『1995年』の中でも、当時のJPOPについて書かれています。

速水健朗(以下、速水):1995年は、JPOPの全盛期なので当時のヒット曲の分析とかを割と紙幅を割いて書きました。ドリカムと自動車の普及率とかについてですけど。でも、当時の僕が実際に聴いていたり好きだったりした音楽の話にはまったく触れてないんですね。この場を借りて1995年に僕が好きこのんで聴いていた音楽の話をさせてもらうとですね、まず植木等のアルバムとして発売された『植木等的音楽』の年というのが大きい。それと小林旭と東京スカパラダイスオーケストラが競演した『アキラのジーンときちゃうぜ』。前者は先日亡くなった大瀧詠一さんのプロデュースアルバムで、『新二十一世紀音頭』なんかが入っている大瀧色の強い作品です。後者は、サントリーのCMソング。まさかアキラとスカパラ結びつくんだというだけでなく、かなりかっこいい曲です。歌謡曲でもなくクラブ的でもなく、その中間的な領域に面白い音楽がたくさんあった。というだけでなく、どちらも温故知新的な意味合いとか、前の世代へのリスペクトがあった。これが、この時代の特徴じゃないですかね。

 あと、1995年というと、その後続編がつくられると言われ続けて久しいヤン富田プロデュースのドゥーピーズ『DOOPEE TIME』や、カーネーションの最高傑作アルバムの『a Beautiful Day』なんかがこの年です。どれもチャートに入ってくるようなものではなかったですけど、この年の時代性を表している音楽として共感してくれる人たちは結構いるんじゃないかな。

――音楽を取り巻く環境が大きく変化したのが1995年でした。

速水:当時はHMVやタワーレコードのような外資系大型レコード店が全国的に、広がっていた時期ですね。それ以前の「街のレコード屋」から90年型の「大型輸入店」に移行したんです。僕は高校時代は新潟に住んでいたんですけど、ある時期までは演歌のポスターが貼ってあって、カセットテープが主力商品だった街のレコード店でCDを買うしかなかった。でも、90年代前半に大学に入って帰省すると、新潟にもタワーレコードができてたんです。そんな時代。

 それと1995年当時、僕は大学生でしたけど、学校はあまり行かずに毎日渋谷に行ってました。目当ては主にレコード屋ですけど、一番よく覗いていたのは、クアトロになる前のWAVEとかでした。1995年ってCDが史上2番目に売れた年で、ミスチルやドリカム、小室哲哉を初めとした大ヒットミリオンシングルが35曲も生まれているんですけど、渋谷のWAVEのようなレコード屋に足を運んでいる限り、その手のJPOP一色ではまったくなかった。むしろ、僕がさっき挙げたようなドゥーピーズみたいなCDが、渋谷ではB`zやドリカムなんかよりもプッシュされていた。

 ちなみに当時の渋谷のWAVEの2階は刺激的な場所だったんです。イタリアやフランスの見たこともないような映画のサントラや、それなりにオールディーズに精通していたつもりの僕でも知らない60年代の音楽で溢れていて。まさに『サバービア・スイート』とかの時代ですね。

 この1995年前後に、新譜のCDがきちんと売られる場所が生まれたこと、そしてCDの普及が進んでたくさんの廃盤の復刻や再評価が進んだこと。その両方がこの時代に起きていた。

 それと個人的には、ナイアガラー(大瀧詠一を宗教的に信仰するポップスマニアの総称)的な、ポップス史を遡る巡礼と、サバービア的な過去の音楽を現代的に再解釈しカタログ化されるという洗礼の両方をこの時代に体験したという感覚があります。

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