音楽プロデューサー佐久間正英が語る「未来の音楽のために」(前編)

「今はライブ全盛」は一面的な見方 ライブハウスのシステムに無理がきている

――こうしたコンテンツを取り巻く環境は、今後も続く可能性は高そうです。

佐久間:基本的にはこのままの状態が続き、ミュージシャンもリスナーもそれに馴染んでいくのだと思いますが、情報整理の方法は少し変わっていくかもしれません。つまり、「ググる」が第一の選択ではなくなる可能性はある。そういう意味では、spotifyやPandora Radioなどの音楽配信サービスに期待している人が多いですね。ただ、僕としてはAppleが出てきたときのようなドラスティックな変化がもう一段階起こらないと、状況は大きく変わらないと思います。

――佐久間さんはこれまで音楽活動を続けるなかで、今のお話に出たような"情報の流通"の部分は常に意識していたのでしょうか。

佐久間:それほど意識はしてきていませんでしたが、やっている以上は、知識として入ってきますね。ここ15年くらいで状況は変わってきましたが、アメリカと比較して、日本の場合は最初の時点で商業としての音楽の作り方、見せ方は下手だったと思います。つまり、興行を暴力団が取り仕切る時代があり、そこからハードウェアメーカーがオーディオ装置を売るためのソフトウェアとして音楽を作り始め......という経緯のなかで、音楽に詳しくない人たちが、とにかく音楽を量産する方向でビジネスしてきました。

 一部のラジオのように、音楽を一生懸命に、丁寧に届け、それが報われている部分もある。しかし、日本の音楽業界は本来基盤になるはずの「人々の生活にどう音楽を届けるか」、あるいは「人々が音楽をどう欲するのか」ということを、きちんと整理してこなかったのだと思う。簡単に言うと、音楽を商品として扱う上で、十分な商品知識がないまま売ってきてしまった、ということです。普通「モノを売る」ということは、作り手も売り手も「この商品がどうやってできあがったものか」ということをきちんと理解した上で市場に出し、結果として、その商品が社会の役に立つ......という流れがある。音楽業界には、そういう当たり前のことが欠落していました。

――佐久間さんは自らをレコーディングの「現場監督」と位置づけ、プロデューサーとして「アーティストごとの最適解を探し、商品価値を高める」という考え方をしていると聞きました。ポピュラーミュージックにおいては、絶対的な美の基準があるわけではなく、例えばブルーハーツとGLAYでは最適解は違う、ということですね。

佐久間:人にはそれぞれ"人となり"というものがあり、それに合っていない言動をすると「ウザい」「キモい」ということになります。音楽も同じことで、アーティストやバンドの"人となり"、そのポイントを押さえて、ブレないようにするのが大事なんです。

 音楽の話をしていてもっとも誤解されやすいのは、「いい音」という言葉。これはMP3だWAVだというファイル形式の話ではないし、オーディオマニアがいうような優れた音質という話でもない。つまり、その時、その場、そのアーティスト、その楽曲にとってふさわしい音なのであって、どんなにボロくて安っぽい音質でも、それが最高に「いい音」として輝く音楽もあるんです。あるいは逆に、レンジが広く澄んだピアノの音があって初めて「いい音」として響く音楽もある。アーティストや楽曲によって最適解が違う、というのはそういう意味です。

――そんな中で、佐久間さんは最近、インタビューなどで「プロデューサーは必要でなくなってきた」というニュアンスの話をされています。その理由とは?

佐久間:制作スタイルが大きく変わり、残念ながら制作にお金をかけることもできなくなっているから、かつてのような音楽の質を保つことができない。そうすると、僕のようなやり方のプロデューサーの出番はない、ということです。"音楽性"という意味ではいつの時代にも常に新しいもの出てきますから、音楽自体がつまらなくなったということではない。新しい制作のあり方を考えるべきだ、ということです。
(取材・文=神谷弘一)

中編「『僕が今もし20歳だったら、けっこう燃えていた』佐久間正英が見通す、音楽業界の構造変化」に続く

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