宮台真司の『恋人たち』評:〈世界〉を触知することで、主人公と観客が救われる傑作

宮台真司の『恋人たち』評

『マグノリア』と共通するギリシャ悲劇的要素

 橋口亮輔監督の『恋人たち』(11月14日公開)は素晴らしい映画でした。多くの人がすぐに想起するのはポール・トーマス・アンダーソンの『マグノリア』(2000年日本公開)でしょう。ともに複数の主人公が立つマルチスレッド・ストーリーで、最後に「救われる」作品です。尤も、『マグノリア』では、観客に救いが訪れるのに必ずしも主人公たちには訪れない。『恋人たち』の場合、3組の主人公たちが救われることで観客も救われる。そこに構造上の違いがあります。しかし、重要なのは共通する要素の方。すなわち、両作ともギリシャ悲劇的なのです。

 ギリシャ悲劇はいわゆる三幕物の起源であり、日本の雅楽や義太夫で言うと「序・破・急」の構造を持ちます。黒沢清監督『岸辺の旅』の評(宮台真司の月刊映画時評 第3回:『岸辺の旅』評 )でも触れたように通過儀礼の構造と同じで、「序」は離陸面、「破」は混沌、「急」は着陸面となる。混沌を経験する前と後では<世界体験>の在り方が変わるので、離陸面と着陸面との間にはギャップが生じます。つまり、主人公は成長していたり、大きく転向していたりするのです。

 僕がよく例に挙げる三幕物は、今村昌平監督『赤い殺意』やそれをルーツにしたピンク映画と昼メロです。『赤い殺意』で言えば、「序」で平凡な主婦の生活が描かれ、「破」で突然ならず者に強姦されますが、その男とのやり取り通じて主婦はやがて男に対して優位に立ち、「急」において男を亡き者にして再び日常に着地します。周りから見ると、主婦は見かけ上は何も変わらない生活をしているけれど、彼女自身の<世界体験>は変化を遂げている。つまり、これまでと違って、再帰的/自覚的/意識的に日常生活を送るようになっているーー。

 ヒトが音楽と区別される概念言語を得て四万年余り。農牧による定住を得て一万年足らず。書き言葉を得て五千年足らず。言語以前を忘れないために神話的な対称性哲学(中沢新一)があり、定住以前を忘れないために【ケガレ(日常の頽落)⇒ハレ(非日常の混沌)⇒ケ(日常の回復)】の構造を持つ祝祭があり、同じ形式を持つのが通過儀礼です。通過儀礼とは或る共同体から別の共同体へのーー例えば「子ども共同体」から「大人共同体」へのーー移行儀礼で、混沌を経験する前と後とで離陸面と着陸面が異なることを利用します。自己啓発セミナーも同じ構造です。

 「序・破・急」の破に当たる混沌ないし非日常は、変性意識状態に対応します。変性意識状態は、通常意識状態と区別された「普段できないことができる意識状態」です。祝祭は、性別の逆転・強者弱者の逆転・ヒトと動物の逆転・規範と禁忌の逆転など、定型によって保護された反転を用いて、変性意識状態をもたらします。それに似て、普段できないことを無理矢理させることで変性意識状態をもたらすものが、通過儀礼です。普段できないはずのことができたという混沌体験が、離陸面とは異なる着陸面へのランディングを可能にするのだと考えられます。

 通過儀礼は長くても数週間ですが、近現代になると通過儀礼が長期間の学校教育に置き換えられます。学校教育は、複雑な社会システムを再生産すべく「人材を選別しては動機付け、動機付けては選別する」機能を担います。複雑な社会システムでは、「ハレとケ」の時間的交替が複雑なシステムと両立しないので、「時間的交替の空間化」がなされます。日本で言えば、江戸時代になると、各地に散在していた芝居街や色街を人形町周辺の荒野=葦原にひとまとめにし、17世紀半ばに浅草日本堤に移転させ、吉原は色街としては世界屈指の規模になります。

 古い時代には、祝祭になると、かつて聖なる存在だったがゆえに通常は差別されるようになった存在が、共同体を訪れて、芝居と色の非日常的な眩暈を提供しました。こうした著しい時間的交替があると、そのたびに経済活動や統治活動が停滞するし、その機に乗じて反社会的行動が噴出する可能性もあります。だから、著しい時間的交替を排除して非日常的眩暈を特定空間に隔離し、大半の空間を眩暈から無関連化させます。こうして出来上がるのが芝居街と色街ーー盛場の奥に芝居街があって奥の院に色街がある形式ーーです。古くは「悪所」と呼ばれます。

 大半の空間が「序・破・急」的な眩暈体験から無関連化される代わりに、「悪所」に詣でれば芝居や色事を通じて各人がマイクロに眩暈体験を享受できるようにしました。要は「眩暈体験を社会からパーソンへとシフトさせた」のです。注意すべきは、複雑な社会システムの統治と両立しがたいからといって、ハレや眩暈の時空を一括して排除するような選択を、多くの統治権力がしなかったことです。その意味で、社会次元であれパーソン次元であれ、「混沌を経て元々居た場所に再帰することで、自らの輪郭を取り戻す」営みが、ヒトには不可欠なのです。

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