ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第六回
『Getting Over It with Bennett Foddy』に込められた作者の願いとは 壺おじを通じて“対話”をする私たちとフォディ

インディーゲームの金字塔として知られる、“壺おじ”こと『Getting Over it With Bennett Foddy』をご存知だろうか。数々のゲーム配信者、VTuberがプレイし、「ゲーム実況の登竜門」として評価を受ける、インディーゲーム屈指の名作だ。
同作のタイトルには作者であるベネット・フォディ(Bennett Foddy)の名前が記されている。ゲーム実況を見るのが好きな人、VTuberを好きな人、あるいは『Steam』でゲームを遊んだことのある人なら、「なんとなく知っている」「聞いたことはある」であろう“壺おじ”だが、その作者の人となりについては、意外と知らない人が多いのではないだろうか。
そこで今回、リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。
今回からは、いよいよ『Getting Over It with Bennett Foddy』について詳しく見ていく。タイトルに名を刻んだ意味は、込められた想いとはなんだったのだろうか。
なんのためにゲームは存在するのか
本連載では、ここまで折りに触れ『Getting Over It』の話をしてきた。もしかすると、いまさら個別の解説を必要としないのかもしれないが、しよう。これまでのフォディの人生すべてが『Getting Over It』へと至る道程だったのだから。
「オックスフォード大学の哲学研究者がゲーム開発者に転身」というよく貼られるレッテルほどに、彼は優雅なエリートだったわけではない。ゲーム好きであったにも関わらず、ゲーム業界への夢を持てない国に生まれ、音楽活動や哲学研究で実績を認められるも、いつもどこか所在ない気持ちを抱えていた。
ネットでようやく心地よいコミュニティを見つけ、20代後半にしてアマチュアゲーム開発者として自分のゲームを作り始めたはいいものの、その時代には「インディーゲーム」で食える展望などなかった。インディーゲームのブームが起こったとおもったら、成功を手にしたのは常に彼以外のだれかだった。何年か越しに『QWOP』がバイラルヒットするが、所詮は無料ゲームであり、次につながるかどうかもわからない。
しかし、そこからわずかな光明をたぐりよせ、ゲーム実況やオルタナティブアートの展示に人々の交流の可能性を見出す。そのうち学識と経験を買われ、NYUでゲーム漬けの毎日を送ることになる。生徒や同僚に慕われ、賞を得て巣立っていく教え子たちを見送り、アートゲーム界隈や開発者コミュニティでも一定のリスペクトを得た。
栄達、と表現して差し支えないだろう。だが、これまでさんざん迷いを重ね、紆余曲折を経てきた彼が人生のメタファーとして山を仰ぎ見たときに考えたこととはなんだったのか。
『Getting Over It』のコアは「進行を失うこと」だとフォディはいう。
たいていのゲームは時間とともに進行していく。物語が展開され、数字が増える。あるいは勝ち負けが決まる。その時間が巻き戻されるとき、ひとは自分が失敗し、罰を受けたと感じる。
その顕著な例が、2025年に『Hollow Knight: Silksong』で論争を巻き起こしたランバック(デスラン)と呼ばれるメカニックだ。主に『Dark Souls』のフォロワーに多くみられるもので、ボス戦に敗れると即ボス戦からやりなおしになるのではなく、そのちょっと前のチェックポイントに戻される。そして、ボス戦手前のわずらわしい雑魚敵や危険なアスレチックを交わしながら、時には数分をかけてボス戦へと復帰する。
ランバックは多くのプレイヤーに忌み嫌われている。なぜ、わざわざしちめんどうな雑魚敵やアスレチックの相手をしなければならないのか。慣れないうちは道中でダメージを食らって弱ることが多く、おかげでまたボスに負けてしまう。そして、またチェックポイントへ戻され……という無限ループに陥る可能性すらある。ボスに負けたのだからやりなおすならボスからにさせてくれ、と願うのは自然な感情であり、過剰な進行の後退はもはや「罰」にさえ感じられる。
『Getting Over It』は敵キャラこそ出現しないものの、進行の後退という面ではもっとも苛烈な部類に入る。段階を踏みつつ、こつこつと地道に重ねてきた進行が一瞬で蒸発してしまう。それは死ではない。死のほうがまだいい。本作では、ゲーム側の用意した明確なチェックポイントは存在しない。どこまで落ちるかわからない、という恐怖を抱いたまま転がり落ちていく。
ゲームのプレイヤーにとって、自分で決めていないチェックポイントに戻される方が、ゲームオーバーですべてを失うパーマデスよりも無力感をおぼえるという調査もある。
『Getting Over It』の最大の罰は、「死にきれない」ことなのだ。
本作のSteamストアの紹介文にはこうある。
「特定の人に向けて、誕生した、ゲーム。特定の人を、傷つけるために」
フォディはその「特定の人」について、「何タイプかを想定している」と答えている。そのひとつは「進行を失うとひどく怒るプレイヤーたち」だ。かれらはゲームで負けることを極度に嫌う。これに似たタイプで、「ゲームが得意だと自認しており、どんなゲームにも100%勝つことを目的とするプレイヤー」。
これらのタイプのプレイヤーは最初は『Getting Over It』の理不尽な難易度を受け入れない。怒り狂う。ゲームというのは自分たちが勝つためにできているはずなのに、そうならないのはおかしい、ゲームの方に欠陥があるのだと。しかし、そのなかでもプレイをやめない一部のプレイヤーはいつしか敗北や挫折を受け入れることを学び、謙虚と根気を学ぶ。プレイヤーのひとりは、フォディに「自分の中で何かが変わった。ある時点から怒りが消え、平穏を見つけた」とメッセージを送った。
「ゲーム、いや芸術一般ができることで、わたしにとって大切なのは、人々が『絶対に自分は好きじゃない』と確信しているものに対し、ある種の体験を与えることで『いや、もしかしたら好きなのかもしれない。こういう見方をすれば好きになれるかもしれない』という議論を提示できることです。
だから、これは“負ける”という感覚でそれをやってみせようとしている。『うまくなる』ことが本質なのではありません。『うまくなろうとして失敗し続けること』がどういうものか、についてなんです」
山を登ることは挑戦であり、その頂を征服することは成功である、それは否めない。その点では『Getting Over It』はアンチゲーム的ではなく、まったく古典的なつくりをしてる。
しかし、その成功にたどり着くまでには果てしない失敗もある。後退があり、葛藤があり、怒りがあり、悲しみがあり、歓びがある。
「わたしはゲームが上手くありません。『Getting Over It』もよくできない。テストプレイでは、6時間かけてクリアしていました。これまでの人生でずっと、わたしはゲームが上手なほうではなかった。“git gud(「上手くなれ」)”と言うのは、わたしの考えの対極にあります。むしろ“get bad(下手であれ)”のイデオロギーに近い。私は人々に、私が難しいゲームを遊ぶときの感覚、とても下手でも、なお楽しんでいる感覚を味わってほしい。それが伝えたかったことなのです」
人生というゲームが下手な男、ベネット・フォディ。『Getting Over It with Bennett Foddy』とは、そんな彼の全身全霊だった。それは間違いない。だが、彼は開発者として一方的に伝えることだけを望んではいなかった。




















