ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史 第四回
“ゲームデザイナーとしての自我”に目覚めたベネット・フォディ その後大きな影響を与えた重要人物とは
インディーゲームの金字塔として知られる、“壺おじ”こと『Getting Over it With Bennett Foddy』をご存知だろうか。数々のゲーム配信者、VTuberがプレイし、「ゲーム実況の登竜門」として評価を受ける、インディーゲーム屈指の名作だ。
同作のタイトルには作者であるベネット・フォディ(Bennett Foddy)の名前が記されている。ゲーム実況を見るのが好きな人、VTuberを好きな人、あるいは『Steam』でゲームを遊んだことのある人なら、「なんとなく知っている」「聞いたことはある」であろう“壺おじ”だが、その作者の人となりについては、意外と知らない人が多いのではないだろうか。
そこで今回、リアルサウンドテックではSF作家にして批評家、そしてインディーゲームの熱心なプレイヤーでもある千葉集による「ベネット・フォディを中心に見るインディーゲーム小史」を、全七回にわたってお届けする。大流行するインディーゲームの現在の起源と、重要な役割を果たしたフォディの足跡を知る手がかりとなれば幸いだ。
前回は、フォディを中心とした当時のインディーゲーム業界について解説した。今回は、芸術としてゲームを教えたフォディと、その周辺で彼と相互的な関わりを持ったとある大物について。
『GIRP』と賞レースの幕開け
2011年3月、『QWOP』のバイラルヒット後初めてとなるフォディ作品、『GIRP』がリリースされる。崖っぷちに配置されたアルファベットのリング、それに対応するキーを押すと手が伸びてリングを掴む。それをホールドしたまま上のリングへ、さらに上のリングへ……と登っていく「山(崖)登りゲーム」だ。
身体や物理の奇妙な挙動に加えて、今作ではときおり挿入されるやさしげなメロディや、ミス=即ゲームオーバーではなく落下した別の地点からやりなおせる(ただし本作のリカバリはかなり難しい)といったところも印象的だ。が、のちのフォディの作風を語るうえで外せない新要素といえば、「山登り」というテーマそのものだろう。
『Getting Over It』にこんなナレーションが入っていたことを思い出そう。
この山を登りながら、こんな面白い考えが頭をよぎりました。障害物のアイデアがあって、それを作って、テストして…これが、不必要なくらいに難しい要素になって、それでも、これをあえて簡単にしようとは思わない。その障害物を越えられないのは、プレイヤー側の能力が足りないだけだと、思うわけです。想像上の山は、私たちによる登山に向けた努力から、自ずと生まれる。そして、人間が何度もそれの登頂をしようと試みることで、そういった山は現実のものとなる。
『Getting Over It with Bennett Foddy』
古くはギリシャ神話に登場するシーシュポスのころから、ヒトは登山を人生に見立ててきた。険しく困難な道をあえて進むこと。それが人類の意志というものの強靭さの証明であるかのように語られてきた。フォディがこの題材に行き着くのは、彼の問題意識からしても当然だったのかもしれない。
『Getting Over It』をはじめとしてフォディ作品に頻出する”登山”のモチーフだが、『Celeste』や『A Short Hike』など、2010年代後半移行のインディーシーン全体でもそれなりに人気の題材だ。近年では『Cairn』、『PEAK』や『Jusant』といった作品も話題となり、ちょっとした流行の気配さえ見せている。
しかしインディーに先行例に乏しかった2011年において、『GIRP』の直接のインスピレーション元となったのはもちろん80年代の登攀ゲーム、具体的には『クレージー・クライマー』と『Final Assault』だった。
『GIRP』は比較的地味な見た目だったためか『QWOP』ほどのバイラルヒットに恵まれなかったものの、TIGSの開発者仲間からの評判はよかった。
とりわけ、現在インディーパズルゲーム界のゴッドファーザー的存在として君臨しているDraknekことアラン・ヘイゼルトンは本作を気に入り、TIGSのフォーラムに自分で『GIRP』スレをプレイ動画付きで立てるほどだった。より直感的で即応的な操作が求められる『QWOP』に対して、『GIRP』では登攀ルートについてある程度の読みや試行錯誤が重要となってくる。そうした静的な推理要素パズルマニアである彼にフィットしたのだろう(*1)。
そして、『GIRP』はさらなる栄誉をフォディにもたらすことになる。IGF--賞レースへのノミネートだ。
各ゲーム賞がインディーを顕彰する枠組みを整えきれていなかったなかにあり、1990年代にいち早く「インディペンデント」を冠した賞・イベントを設けてその先鞭をつけたのが「Independent Games Festival(IGF)」だった。ゲーム開発者の交流イベントである 「Game Developers Conference(GDC)」から「ゲーム界のサンダンス映画祭」を志向して生まれた集まりだ。もともとはGDCの脇でこぢんまりと催されていたものの、学生発インディーとして賞を与えられた『Narbacular Drop』がのちにValveのもとで『Portal』として発展し大ヒットをおさめるなど(*2)、2000年代中盤からはインディークリエイターの登龍門として存在感を増していた。特にTIGSにたむろしているクリエイターたちからはIGFはよくも悪くも「権威」とみなされていた。
イェスパー・ユールが指摘するように、IGFのようなゲームフェスティバルは2000年代から2010年代を通じて「インディーゲーム」を制度化するうえで大きな役割を果たした。どんな賞でも審査員の好みに左右される。IGF、A MAZE、Indiecadeといった主要なインディーゲームフェスティバルでは、そうした“好みによる選別”が、そのまま「インディーらしさ」を定義するフレームとなった。
そして、IGFの審査員たちはジャーナリスト、ゲーム開発者、研究者などで固められていた。ゲーム開発者枠には過去の受賞者も招かれ、デレク・ユウ、アレック・ホロウカ、フィル・フィッシュ、ペトリ・プルホなどといったTIGSで馴染みの面々もこの時点ですでに審査員を経験済みだった。
審査するほうもされるほうも顔見知り。狭い業界である。だが、狭いからこそ、そこでの評価は「インディー」のメインストリームに乗れるかどうか、つまりは「食えるインディー開発者になれるかどうか」へと直結する。実際、デレク・ユウは『Spelunky』の自作解題本のなかで「2007年に『Aquaria』でIGFの最高賞を取ったことでようやくフルタイムのインディーゲーム作家になれた」と証言している。
無名の野良インディー開発者が「プロ」になる切符を勝ち取れる場所。それがIGFだったのだ。そんな夢の舞台に、フォディは上り詰めたのだった。
『GIRP』がノミネートされたのは「抽象的で短く、ゲームに対する考え方を発展させてくれるような型破りなゲーム」を対象とする部門賞のひとつ、「Nuovo Award」だった。主として個人開発や極小規模開発の、実験的要素やアート的要素の濃い作品がノミネートされる部門だ。この年の賞を争うライバルとなったのも、錚々たる面々だった。
盟友テリー・キャヴァナーがスティーブン・ラヴェルと共作した『At a Distance』、〈ウォーキング・シミュレーター〉ジャンルの開祖『Dear Esther』、そのウォーキング・シム初期の傑作のひとつで当時「ゲームと見なせるかどうか」の大論争を巻き起こした問題作『Proteus』、フォディの友人ダグ・ウィルソンが「PS3」の『PlayStation Moveコントローラー』用に作った奇妙なゲーム『Johann Sebastian Joust』、そして、TIGSフォーラムで顔なじみのアルゼンチン人ダニエル・ベンメルグイの『Storyteller』。
だれもかれも、TIGSに出入りしていた者ばかりだ。これも、偶然ではない。公募の賞であるIGFは受賞すればそれなりの額の賞金を得られたし、なにより目立つことで有力なパブリッシャーに見初められる可能性もあった。特に革新的なアイデアが重視される「Nuovo Award」は、開発途中のデモ版であっても望みを持てた。TIGSの住民たちも賞の選考に大きな関心を寄せ、IGF用のスレッドは応募者が不安と期待をないまぜにしながらやきもきする楽屋裏となった。
結局、この年の「Nuovo Award」はベンメルグイの『Storytelller』へと渡る。この作品は、作者自身がTIGSフォーラムで吐露していたように未完成の状態であったものの、そのアイデアが大いに評価され、製品化が決まる。が、その後、長期間にわたって開発が難航。2023年にAnnapurna Interactive(受賞当時は設立さえされていなかったパブリッシャーだ)からようやく正式リリースへとこぎつける。インディードリームは時に険しい道なのである。
ちなみに2012年度のIGFで最高賞を獲得したのはフィル・フィッシュの『FEZ』だった。数々のゲームフェスティバルで賞を総ナメにしてきた『FEZ』はこの栄冠を最後の弾みとして、12年4月にXBox Live Arcade、翌年にPCでもリリースされ、ミリオンヒットを記録、見事な飛躍を遂げる。
ユウ、キャヴァナー、フィッシュらTIGS出身者たちの成功を横目に、フォディもささやかながら彼なりのドリームを着実に積み上げていた。ゲーム実況によるバイラルヒットや賞のノミネーションで、業界での評価も固めつつあった。ちなみに2011年には『QWOP』がネット時代のゲームを象徴する作品の一つとして、現代アートの権威たるニューヨーク近代美術館(MoMA)で展示されてもいる。(*3)
いまだにFlashの無料ゲームしか出していないにもかかわらず、彼はインディーゲーム業界の内外で作家として認められつつあった。
人と遊ぶ
2011年11月、フォディは『Poleriders』をリリースする。フォディ初の2人用(ローカルマルチ)対戦ゲームだ。
あいかわらず妙ちきりんなゲームではある。「棒高跳びのポールを使ったホッケーゲーム」とでもいえばいいだろうか。ふたりのプレイヤーキャラクターが左右の陣営に分かれ、上にひもで吊り下げられたボールをポールで打ち合いながら相手側の陣奥に設けられたゴールへと運んでいく。
当然、フォディのゲームなのでポールを含めた物理の挙動はどうにもままならない。プレイヤーは互いにじゃじゃ馬のようなポールを操って戦っていく。
本作は後に『Super Pole Riders』として4人プレイ用にリメイクされ、ダグ・ウィルソンの『Johann Sebastian Joust』などとのセットで『Sportsfriends』という“マルチプレイへんてこスポーツゲーム”のアンソロジーにまとめられた。ちなみに『Sportsfriends』は「『Wii Sports』に対するインディーからの返歌」を自称している。プレイヤー自身の身体性を操作に取り入れたゲームをカジュアル層へと広めた『Wii Sports』の開拓者精神に、インディー開発者として共感するところがあったのだろうか。
『Sportsfriends』の開発元となるDie Gute Fabrikはダグ・ウィルソンが属するデンマークのインディースタジオで、『Mutazione』や『Saltsea Chronicles』などを世に送り出し、後に名を馳せることになる。ダグ・ウィルソンはTIGS時代からのフォディの盟友のひとりであり、のちに同じ「ゲームを教える教員」という立場(ウィルソンはロイヤル・メルボルン工科大学に所属している)から、GDCで共同して講演を行ったこともある。
それはさておき、実は『Poleriders』は2010年代前半に急速な伸長を見せていたeスポーツへのフォディからのコメンタリーでもあるという。
どういうことか。「Poleriders(Super Pole Riders)」は純粋な物理演算を行うという点で、当時の対戦型マルチプレイヤーゲームとしては稀有な作品だった。というのも、オンライン対戦が主流である現代のマルチプレイゲームの環境では、通信によって引き起こされるラグの影響を軽減するためにゲーム側で「予測コード(prediction code)」を入れてレスポンスをなめらかにする、いわゆるロールバック方式を採用していた。そのためにはなるべく予測不可能性を狭めなければならない。だから、「イレギュラーなバウンド」を引き起こすような物理的な挙動はゲームに取り入れたがらない、というのがフォディの考える「eスポーツの世界」だ。
ランダム性を現実のスポーツ以上に最小限に抑えようとするeスポーツが、彼は気に入らなかった。もちろん、それは彼の「ソフトウェアは不服従であるべき」という理念にそぐわないからだろう。さらにフォディは「理由はもうひとつあります」と続ける。
「私が人生で味わってきた最高のゲーム体験は、いつも生身のだれかと同じ場所を共有しているときに起こってきたということです。私が作り、遊びたいと考えるのはローカルマルチプレイヤーゲームです。そこでは、現実の物理法則をそのまま持ち込み、アナログ的な予測不能性を取り入れることができます。そしてそこから、ドラマやスリルが自然に生まれるのです」
ローカル対戦はゲームの原点である。ゲーム研究者の中川大地がいうように、「『Tennis for Two」『Spacewar!』『ポン』と、黎明期におけるビデオコンピューターゲームのメインストリームは、いずれも基本的には二人プレイ用としてデザインされ」ていた。
最初期のビデオゲームにおいて一人プレイはオプションとしてすら存在せず、共に遊ぶ“誰か”を必要とするものだった。ビデオゲームはその発展の過程で、「“対戦相手”の役割を非人格的な環境の中に埋め込むかたちになったとも言える」。
デジタルな反復をアナログなランダムさへ、非対人的な一人遊びを対人的なローカルマルチプレイへ。それぞれゲームの歴史を現在から過去へ巻き戻し再解釈する試みとして、同時に「ふたりのプレイヤーが互いに『不服従』でいられる環境」として、この時期のフォディはローカル対戦に凝っていた。『QWOP』の精神的続編である『CLOP』はさておき、2012年に出した『Get On Top』も1996年発売の紙相撲ゲーム『Fight of the Sumo Hoppers』を再解釈した二人用対戦ゲームであったし、13年の『Bennett Foddy's Speed Chess』も16人が2チームに分かれて手番無視のリアルタイムでチェスの駒を動かしあう「ローカルマルチ専用ゲーム」だった。
もともと『Speed Chess』は「No Quarter」展というニューヨーク大学のゲームデザイン学科である〈ゲームセンター〉のイベントのために作られた作品だ。『QWOP』のアートスペース出展をきっかけに、フォディは「生身のだれかと同じ空間を共有しているとき」に生じるゲーム体験を追求する方向に向かいつつあった。
TIGSでは批評的な開発者コミュニティにどっぷりと浸かっていた彼だったが、ネットやアートスペースで自作が遊ばれているさまを見て「ゲームを楽しむプレイヤー」を強く意識するようになったのではないだろうか。
「今では、世界中でこうした(「No Quarter」のような)ローカルマルチプレイのイベント文化が広がっています。それを批判する人もいますけど、私はすばらしい魔法のように感じます。なぜなら、インターネットでは遊べないゲームがそこにあるから。他の人たちと同じ空間にいて、一緒に楽しむ。それこそが“体験”なんです」
ゲームのプレイヤーとプレイ体験を意識し、そこに向かってデザインを行うようになった瞬間。それこそが、ベネット・フォディという作家が真に“ゲームデザイナーとしての自我”を手に入れた瞬間だったのではなかったか。
そうして、フォディは人生のキャリアとしてもゲームの道を選び取っていく。彼は2013年にオックスフォード大学の科学・倫理研究所を離れ、ニューヨーク大学(NYU)の〈ゲームセンター〉で助教の椅子を得る。哲学の教員としてではなく、ゲーム開発の教員として、だ。
哲学者からゲーム開発者へ。付言するならば、フォディの転身に前後して、インディーゲーム業界とその開発者自体も市場、あるいは職業として真剣に受け止められる素地が固まりつつあった。
2012年8月にSteamでGreenlight制度が始まり、オーディエンスからの支持を集めさえすれば、カネもコネもないアマチュア開発者でもいきなりグローバルなビデオゲーム市場に参入できるようになったのだ。わたしたちが今現在「インディーゲーム」と口にするときに想像される「インディーゲーム的」なジャンル、業界のイメージは、このときに定まったといってもいい。
「食える」ようになったフォディとインディーゲームは以降、さらに個性を深化させていく。