チョルノービリが舞台の「S.T.A.L.K.E.R.」に宿る、ポスト・アポカリプス作品としての唯一性 そして期待する“その先”の物語

 どこまでも広がる荒廃とした世界の中でただ一人、ガイガーカウンターの音や得体の知れない怪奇、敵対する勢力の襲撃に怯えながら、わずかな味方の存在と死体から漁った物資を糧にして、ただ黙々と歩き続ける。記憶を失ってしまった主人公にとって唯一の目的となるのは、所持していたPDAに書かれていた「Kill Strelok(Strelokを殺せ)」の一文のみ。

 事故発生後(正確には1986年の事故後、2006年に原因不明の第二次爆発が起きたという架空の設定)のチョルノービリ周辺地域(「ゾーン」と呼ばれる)を舞台としたFPSゲーム『S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chornobyl』は、2007年の発売から現在に至るまで数多くのゲーマーを魅了し、ある種のカルト的な傑作として愛され続けてきた。

 その後、「S.T.A.L.K.E.R.」シリーズは、2008年の『S.T.A.L.K.E.R.: Clear Sky』、2009年の『S.T.A.L.K.E.R.: Call Of Prypiat』によって一旦の区切りを迎えることになるが、さまざまな紆余曲折を経て新作の開発が発表される。そして、さらなる紆余曲折を経て、先日、ついに正式な発売日がアナウンスされたのが2024年9月6日発売予定のナンバリング完全新作『S.T.A.L.K.E.R. 2: Heart of Chornobyl』だ。シリーズとしては約15年ぶりの新作となる。

S.T.A.L.K.E.R. 2: Heart of Chornobyl — Final Release Date Announcement

 発売当時10代だった筆者は、同シリーズにリアルタイムで触れたわけではなく、数年ほど前に後追いでプレイした立場だ。最初はそのあまりにも無骨な手触りに時代を感じながらも、少しずつ「ここにはなにかがある」という妙な感覚を抱くようになり、いつの間にかすっかり作品に没頭してしまっていたのをよく覚えている。本稿では、そんな「S.T.A.L.K.E.R.」の魅力と最新作への期待について、簡単ではあるが書いていきたいと思う。

いまなお人々を惹きつけてやまない「S.T.A.L.K.E.R.」の魅力とは

 最初に書いておきたいのは、『S.T.A.L.K.E.R.: Shadow of Chornobyl』は間違いなく歴史的な傑作である一方で、決して万人向けの作品ではないということ。特に、数多くのAAA級のシューター作品が名を連ねる現代では、その感覚で本作に触れるとその評価の高さに違和感を抱いてしまうのではないだろうか。どこまで行っても世界は荒廃していて、訪れる場所は廃墟ばかり。天気に恵まれないことも多く、全体的に陰鬱とした雰囲気に満ちている。銃はちゃんと狙ってもなかなか当たらず、だからといってゴリ押しで突破しようとすればあっという間に蜂の巣にされる。のんびり探索をしていると、高濃度の放射線を浴びたり、さまざまな形容しがたいグロテスクな敵や怪異に襲われることも珍しくない。とにかく弾薬も回復も足りなくなるし、空腹や出血といったステータスも存在するため、戦いが終わる頃には(あるいはその最中でも)資源はすぐに底を尽いて、ひたすらに死体を漁り続けることになる。当然、ストレスは大きい(特に序盤)。

 だが、そうした日々を続けているうちに、なぜか妙に居心地の良さを感じるようになっていく。その大きな理由の一つとして考えられるのが、本作におけるリアルな生活の手触りである。頼まれた仕事や自身の目的のために遠出をして、敵勢力やミュータント、怪異や放射線といった脅威に襲われながら必死の思いで戦い、また長い道のりを歩いて元の場所へと帰ってくる。そこにあるのは、焚き火を囲みながらギターを弾いている仲間の姿や、遠くから聴こえてくるラジオ越しの音楽であり、依頼主から報酬を受け取った後にも、特に用があるわけでもないのになんとなくその場にいたくなる感覚がある。

 もちろん、本作は癒しに満ちた作品ではない。むしろ真逆といってもいいくらいであり、チョルノービリやプリピャチについての丹念な取材(そのなかには当時のチョルノービリ原発事故の関係者も含まれる)を積み重ねて作り上げられたリアルなマップとその凄まじい荒廃ぶりや、「チョルノービリを舞台としている」からこそ描くことのできる物語、あらゆる物事が極限状態を迎えているゾーンという場所で繰り広げられる(現実の歴史をも想起させる)人々の関わり、そして、視界の先で繰り広げられる戦いの数々と、その様子を「どっちが勝つかな」と思いながら遠くで眺め、漁夫の利を狙うあまりにも醜い自分の姿。道を歩くごとに増えていく死体、死体、死体……。そうした重さが、プレイを重ねれば重ねるほどに、しっかりとした質量を伴って感じられるようになっていくのが本作のもう一つの特徴でもある。だが、そうした重みがあるからこそ、前述したような妙な居心地の良さがひたすらに際立っていく。

 「S.T.A.L.K.E.R.」は、「Fallout」や「The Last of Us」と同様に、いわゆるポスト・アポカリプスに分類されるシリーズの一つだ。そもそも、なぜポスト・アポカリプスという(一見すると退屈にも感じられる)舞台設定が多くの人々を魅了するのかと考えると、そこには高度に発達した現代の光景に対する、ある種の息苦しさを見て取ることができるし、あるいは人間という存在に対するシニカルな考え方も含まれるのかもしれない。

 だが、なによりも重要なのは、そうした発展の果てに生まれた極限状態のなかでも、とりあえず前に進もうとする人々の姿なのではないだろうか。その点において、「S.T.A.L.K.E.R.」の持つリアルでずっしりとした重さと、あまりにもわずかな喜びのコントラストは、現代の作品と比較しても唯一無二のものであり、だからこそいまでも多くの人々を魅了してやまないのかもしれない。

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