853億円を投資して量子コンピューターの施設を作ったスイス人 市民も期待する一大構想とは
量子コンピューターの研究・開発施設というと、大企業や大学を思い浮かべるだろう。だが、スイス北西部に位置する第三の都市・バーゼルには、たったひとりのエンジェル投資家が5億スイスフラン(約853億円)を投資して作った巨大施設「アップタウンバーゼル」がある。同施設は70,000平方メートルという広大な敷地を持ち、IoTやAIがけん引するインダストリー4.0(第4次産業革命)の中心になることを目的としている。
また、ここではスイス初となる商業利用可能な量子コンピューターハブである子会社「クアンタムバーゼル」を運営しており、そこではすでに量子コンピューターを商業的に使うための独自プラットフォームを作っている。筆者はメディアツアーでこの施設を訪れ、街ぐるみで量子コンピューターを盛り上げようとする人々とであった。
野心的な量子コンピューターの施設
「アップタウンバーゼル」は、インダストリー4.0の中心になることで、人件費の安い海外に工場を移転したために国内の産業を衰退させる「産業の空洞化」に歯止めをかけようとしている。鍵は、デジタル化、ネットワーク、プラットフォームを作って共に働きかけること。かなり野心的だが、そのための筋道はしっかり立ててあるように感じられた。
産業の空洞化が進むと技術者の流出リスクが高まり、ひいては国力の低下につながる。そこでアップタウンバーゼルは、施設に優秀な企業や人を誘致することにした。そのアプローチのひとつが、研究しやすく企業や部署の垣根がないオフィスだ。
建物に一歩足を踏み入れると開放的なオフィスに目を奪われる。ミーティングルームはガラス張りで、中にいる人が丸見えだ。
また、どのような内容を話していても基本的にドアは解放されたままなのだという。その理由は、アイデアのクロスオーバーを実現するためだ。「通りすがりに会議の内容を耳にした人がフラッとアイデアを共有するような環境を目指しています。部署も会社も関係なくアイデアをクロスオーバーさせて欲しい」
こう話すのは、アップタウンバーゼルのCEO ダミエル・ボグダン氏だ。「コロナ禍を経験したことで直接、人とつながることの大切さを再認識しました」と言う彼は、そのまま屋上のテラスを案内してくれた。
夏はバーベキューをしたり、昼間でも映像を目視できる巨大LEDスクリーンで映画鑑賞をしたりして、従業員や研究者が交流を深めているという。
垣根をなくすことは、従業員の間だけでなく、量子コンピューターの間でも意識されているのかもしれない。クアンタムバーゼルでは、そう感じられるプラットフォームが開発されているのだ。
クアンタムバーゼルのハードウェアサプライヤーには、IBMと、カナダを拠点とする量子コンピューター企業のD-Wave、そしてベンチャー企業のIonQの3社が名前を連ねる。これらの量子コンピューターは異なるフレームワークを使っているため、プログラムするのが複雑だ。そこで、クアンタムバーゼルの量子物理学者とAI研究者は、「量子コンピューターをプログラムするために必要なコードを生成するプラットフォーム」を開発した。本来ならば3社バラバラの枠組みが必要となるが、そのプラットフォームを使うことで、プロジェクトがひとつ終われば、その情報を別の量子コンピューターにドラッグ&ドロップするだけでコードが書き換えられると言う。これらは全て機械学習で行われるそうだ。
それだけでなく、ChatGPTを代表する大規模言語モデルに基づく量子コード生成のためのチャットボットも作っている。こちらもIBM、D-Wave、IonQ対応で、コピー&ペーストするだけでいいのだそうだ。
これらのプラットフォームはすでに顧客にプレゼン済みで、反応は上々だったと言う。「我々のプロダクトでありスイス産なのです」と声を弾ませたボグダン氏。アップタウンバーゼルが産業の空洞化を止めるために作られ、それが機能している。
この規模の事業を可能とするエンジェル投資家について
さて、ここまで読んだみなさんの頭の中にはひとつの疑問が浮かんだはずだ。冒頭の「約853億円も払えるエンジェル投資家は一体どんな人物なのか」と。
それがスイスの実業家であるDr.トーマス・シュテーへリン氏だ。複数の企業の会長、取締役を兼任し、弁護士でもある。バーゼルの大手法律事務所創設者であり、バーゼル州議会議員を努めた経験もある名士だ。シュテーへリン氏は、アップタウンバーゼルを作る理由を次のように語っている。
「産業の空洞化について頻繁に話し合ってきましたが、話すだけではなく次の段階へ進むべきだと考えたのです。インダストリー4.0について私にはわかりませんが、それを提唱した人も実は理解していないでしょう。ゆっくりとしたプロセスで進んでいくものであり、鍵となるのはデジタル化、ネットワーク、プラットフォームを作って共に動きだすことなのです」
シュテーへリン氏は、アップタウンバーゼルのCEOであるダミエル・ボグダン氏をはじめとするチームと議論を重ね、未来のために働きかけるなら一歩先をいくテクノロジーに投資するべきだという結論に至ったそうだ。とはいえ、投資した5億スイスフランは途方も無い金額だ。現在77歳という同氏が、何を目的にして投資したのか気になるところだ。ボグダン氏は「シュテーへリン氏は私利私欲のためでも子どもたちのためでもなく、その先の世代のために投資をおこなっている」と説明した。
そんな同氏のビジョンは研究者や起業家といったインダストリー4.0や量子コンピューターを理解している人たちだけでなく、バーゼルに住む人々にも届いたと言える。そう断言できるのは、この施設が国民投票で85%の賛成を得ているからだ。
スイス国民には全ての政治的レベルにおける決定権が与えられており、アップタウンバーゼルのように大規模な開発でも投票があったそうだ。量子コンピューターのハブが、そこまで歓迎されているのは、市民にとっての「メリットの見える化」にあるのかもしれない。
説明しやすいメリットを兼ね備えた施設で人々を魅了
アップタウンバーゼルは、施設全体がサステナビリティを強く意識しており、スイス・サステナブル・ビルディング・スタンダード(SSBS )の基準をクリアした初の商業建築だ。建物は長期利用を見越したモジュラー設計で、将来的なリノベーションにも対応可能。
川沿いの立地を活かして電気供給は水力発電所からのグリーンエネルギーを利用しており、空調やエアコンは屋上の太陽光発電で賄っている。建築にも配慮されており、必要とする電力が最小限で済む。駐車場には電気自動車を充電するチャージングポイントが500箇所もあるという。
屋上ではスイスで減少傾向にあるチョウが飼育されており、施設で提供される食べ物は地産地消を目指してフードロスの軽減にも努めている。新たに導入される2つの巨大なボイラーが完成すれば、寒冷期には地元で出たバイオマスを燃やし、1000棟ものアパートをあたためられるようになるそうだ。
アップタウンバーゼルがサステナビリティにこだわるのは、住民に受け入れてもらいたいからだけではない。サステナビリティに本気で向き合っている自分たちの取り組みに共感した企業や人が集まり、相乗効果で更なる循環システムを生み出したいからだ。
今は静かなオフィスに数人の従業員しかいないが、将来的には2000人ほどになる計画らしい。これだけの人が集まれば街も活性化するだろう。
ボグダン氏は、施設内を案内しながら、こういった話をドラマティックな演出を交ながら話してくれた。それはショーさながらで、よほどプレゼンテーションの練習をしたのだろうと思ったら「もう40回以上やっている」とのこと。そして「かつてシリコンバレーにいたからプレゼンテーションの大切さはよくわかっている」とも。そんなプレゼン力が企業だけでなく市民にも届いているのだろう。
最後に筆者が建物を散策中に出会った若い研究者の言葉を紹介したい。彼に「アップタウンバーゼルで働くことについてどう感じているのか」と質問すると、「働く人をとても大切にしてくれているのが会社の取り組みからも伝わってくる。素晴らしい環境だしずっと働きたい」と答えてくれた。彼のような人々が集い、スイス全体が量子コンピューターが盛り上がっていくのだろう。
最終回となる第3弾では、工業国であるスイスが力を入れる人々に代わって危険な仕事をしてくれるロボットや、期待のスタートアップ企業などについてレポートしたい。
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