メタバースは人間をいかに創り変える? 稲見昌彦×バーチャル美少女ねむが考える「身体」と“アフターメタバース”の行方

AIとの融合によって、あらゆる対人関係が瞬時に最適化される

ねむ:もうひとつ、メタバースで暮らしていて「これは現実より便利だな」と思うのが、名前の表示機能です。アバターの頭の上に「ネームタグ」として常にその人の名前が表示されているので、そもそも「人の名前を覚える」という概念が消失しているんですよね。私は人の名前や顔を覚えるのが苦手なので、すごく重宝しています。これはある種の記憶の外部化、つまり脳と機械の融合とは言えないでしょうか?

ねむのネームタグ - VRChat

稲見:それでいうと、私たちはもっと身近なところで同様の経験をしています。いまやパソコンやスマートフォンに当たり前のように搭載されている漢字かな変換機能です。あれはまさに漢字についての記憶の外部化にほかなりません。ここで面白いのは、「自分は機械の支援を受けて文章を書いている」とは、もはや誰も感じていないということです。

ねむ:言われてみると……。もはや漢字かな変換を「機能」としても捉えていないというか、はじめから自分に備わっていた能力の一部のように感じていたかもしれません。

稲見:それはまさに私たちが自在化技術で目指す「人機一体」の理想的なあり方です。その点、いま流行りの生成AI技術は、他者としてのニュアンスが強い。AIをバーチャルアシスタントとして捉えるならそれは当然でもあるのですが、ほとんど無意識に機能する「自己拡張としてAI」という方向性もあっていいと思います。

ねむ:人とAIの融合が進むと、メタバースではどんな変化がありそうでしょうか?

稲見:まず変化が予想されるのは、コミュニケーションの領域です。近年、リアルタイム翻訳の技術開発が急速に進歩していますが、いずれメタバース上での会話は、ニュアンスや言葉遣いまでリアルタイムで翻訳可能になるでしょう。たとえば私が学生に「このままじゃ卒業できないぞ!」と言ったとします。すると学生側のAIが瞬時にそれを翻訳して、彼が耳にするのは「いつも頑張っているけれど、研究の進捗がすこしだけ心配だね。なにか困ったことがあったらいつでも相談してね!」という言葉になっている、とか(笑)。

ねむ:たしかにAIはそういうのが得意そうですね。いまでもChatGPTに「もっとマイルドに伝えてください」とプロンプトで指示をしたりしますし。AIを用いて「見たくないもの・聴きたくないこと」を遮るバリアを張るようなイメージでしょうか。

稲見:反対に自分が不適切な発言をしないように、AIを用いて言葉にフィルターをかけることもできるはずです。そうすれば、部下を怒鳴りつけてパワハラで訴えられてしまった、といったトラブルも減らせるでしょう。つまりAIによるコミュニケーション支援の全面化は、私たちを感情労働から解放してくれるのです。少なくともメタバースのなかであれば、見た目も、言葉遣いも、態度も、TPOに合わせて常に最適なものをAIが選んでくれるようになるのですから。

「人間」というシステムのAPIキーが公開されつつある?

ねむ:そこまで行ったら、自分の人格がAIに塗りつぶされてしまいそうな気もしませんか?

稲見:AIを介さず、生のコミュニケーションを取りたいときはそうすればいいと思います。けれど、どうしても対人関係がうまくいかないという人が、AIによる支援を受けることは、決して悪いことではないと思うんです。

ねむ:デジタルサイボーグ化が進めば、コミュニケーションも円滑になる、と。

稲見:そういうとちょっと語弊もありそうですが(笑)。でも喧嘩の仲裁するときって、誰かが第三者として間に立って「あいつも悪気があったわけじゃなくて……」と、お互いの言葉を翻訳してあげますよね。その第三者が人からAIに代わっただけ、とも言えるはずです。

 それに私は人間にもAPIってあると思うんです。「やる気を出してほしいときは、こういう言葉をかけるとよい」といったように、これまで暗黙知で理解されていたことが、AIによって分析されつつある。つまり人間のAPIキーが、ついに公開されようとしているんです。だからこれから、特に人間の行動をデータとして扱えるメタバースにおいては、私たちの感情やコミュニケーションに、AIがよりダイレクトに介入してくるようになると思います。

ねむ:そのデメリットはありませんか? たとえば私は長時間メタバースで過ごしたあと、現実世界でつい飲み物の入ったコップを空中に置こうとしてこぼしそうになったことがありました。同じように、AIを使ったメタバースでのコミュニケーションが当たり前になってしまうと、リアルでのコミュニケーションに支障が出たりはしないでしょうか?

稲見:そういう懸念も当然あると思います。けれど、それはほかの多くの道具についても言えることですよ。漢字かな変換を使っていると漢字を書く力は衰えるし、冷房が当たり前になってしまうと夏の暑さには耐えられなくなってしまう。一方で、道具のなかにはダンベルのように使えば使うほど、人間本来の能力を高めてくれる道具もある。私はAIをダンベルのように、人を鍛えるために使うことも可能だと思っています。

ねむ:大切なのはAIをどう使うかということで、弊害はそれほど恐れなくていい、と。

稲見:すでに多くの人が指摘していますが、テクノロジーの話と“しつけ”の話を同じ水準でするべきではありません。技術は技術であり、生身の人間としての能力や感性を伸ばしたいのであれば、そのための時間や機会を設ければいい。そこはしっかりと分けて考えるべきだと思います。

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