連載:僕の私の「モノ語り」(第1回)
執行役員なのに担当プロジェクト1500件! Makuakeのキーパーソン・松岡宏治氏の「モノ語り」
各業界のキーパーソンに、これまでに携わったプロダクトやプロジェクトの背景にある「物語」について語ってもらう連載『僕の私の「モノ語り」』がスタート。第1弾はアタラシイものや体験の応援購入サービス『Makuake』にて、キュレーター本部執行役員を務める松岡宏治氏に登場してもらった。
Makuakeの原点にあるのは実行者の”想い”
小気味のよいテンポでとにかくよく喋る。しかも、半端ない熱量と圧倒的な情報量で、だ。次々と新しいモノを生み出している”アタラシイものや体験の応援購入サービス”Makuake。そのキーマンのひとりが、キュレーター本部執行役員の松岡宏治氏だ。
「ジャンルを問わず、チャレンジする人を応援するのがMakuake。その原点にあるのは”想い”ですね。想いはあるけど、さまざまな課題があって動けない人たちがいる。ならば、課題を解決できるようにウチがサポートしましょう、と。母親には、人の夢を応援しながらお金をいただける最高の仕事だね、といわれています」
学生時代にインターンとしてMakuakeで働き、卒業後は1社をはさんで2016年の入社。その後、着実にキャリアを積み上げマクアケ関西支社の立ち上げにも携わり、これまでに担当した案件は1500件を超える。入社6年目となる昨年10月には若干30歳にして執行役員に就任した。が、いまでも必要とされれば自ら精力的に全国各地へと足を運ぶ。とにかく現場が大好き。いわゆる”たたきあげ”の人でもある。
「Makuakeに入る前に1年間、ITベンチャー企業で広告営業をやっていたのですが、新卒なこともあって、当時の上司によくいわれていたことがあるんです。『お前は人の気持ちがわからなすぎる。人に興味を持てているか?』と。これって、実はいまの仕事で一番大切にしていることなんですよね。例えば、話をしているうちにこの人と一緒に仕事がやりたいなと思ったとするじゃないですか。そうなってくると、その人がいまどういう状況で何に興味があって、もっというとこれまでどういう人生を歩んできたのか。その上でいまどういう課題があって、こうやったらクリアできないかな? と。そこまでシンクロしちゃいますね」
そんな松岡さんがこれまで手がけたプロジェクトのなかで最も印象的だったというのが、2017年夏にMakuakeでプロジェクト支援を募った「glafit」。当時、新しいモビリティとして注目を集めた公道を走行できる電動バイクで、日本で初めて支援金が1億円を突破した。
・glafit
https://www.makuake.com/member/posted/220819/
「もともとは15年以上、自動車・バイク関連用品の企画製造に取り組んできた会社でしたが、glafitの鳴海社長と直接お話をさせていただいて、これからのモビリティを創っていきたいんだ、という熱い想いに触れたんですよね。それまでは見えていなかったプロダクトのカタチや熱意、そして鳴海社長がどういう未来を描いているか。それがダイレクトに響いてきたんです。glafitに1億円の支援金が集まったのにはもちろん、プロダクトの新しさもありますが、鳴海さんの想いがあったからこそ、なし得たプロジェクトだと思いますね」
稀有な経験を求めて常に自ら動く
しかし、「glafit」のプロジェクトはけして順調に進んだわけではない。マクアケの社内でも反対の声があがっていた。
「当時の感覚としては、バイクメーカーではない会社がバイクをつくるなんてあり得ないとなるわけなんですよ。支援金の目標額も3000万円で、当時、その金額を達成できているプロジェクトはMakuakeのなかでもほんのひと握りでしたからね。本当に支援金、集まりますか? とか、プロジェクトの社内審査の段階でも、バイクは人の命を預かるものだから大丈夫なのか? とか。そこで、台数限定の展開にすることでようやくGOサインが出たわけですが結果、1億円が集まったという、伝説のプロジェクトですね」
プロジェクト始動の決め手になったのはやはり熱量だという。
「鳴海社長が和歌山県からわざわざ試作機を持ってきてくれて、glafitをナマで見たときにすぐに想いが伝わってきたんですよね。こういうモノが世に広がっていくためにマクアケという会社があるよね、と。これが熱量の力です」
もともと稀有な経験を求めていた。入社後すぐに、関西支社の立ち上げに携わったのもおもしろいなと感じたから。もっといえば、インターンをして自身的に好感触だったマクアケにそのまま入らず、あえて間に1社を挟んだのも「Makuakeの仕事も内容はおもしろかったし、人を応援する仕事に興味があったし、そこで働いている人の人柄もよかった。だから、大学を卒業してそのままマクアケに入ってもよかったけど、なんか狭くなってしまうような気がして、一度出たんですよね」。
その価値観の原点になっているのが高校時代。
「サッカー部に所属していましたが、スポーツ推薦もある強豪校だったので、そこではじめて、どうやっても勝てない世界もあるな、ということを知りました。やがて、その環境のなかで自分はどう動いてどういう役割をして、いかに楽しんでいくかを考えるようになるわけです。いま、僕がやっているキュレーターという仕事もこれまでにはない仕事だからこそ、どうあるべきか常に向かい続けています。そのひとつが、入社したときからから続けている、勘の言語化ですね」。