連載「multi perspective for metaverse」第二回(ゲスト:awai)

メタバースによって接近する“アバターとファッション” DJ RIO × awai(fale)が語り合う

着る側でなく見る側がコントロールする、デジタル領域のファッション

イラストレーター・BALANCE氏の手がけたビジュアル

ーー自分がどう見られるかを自分でコントロールできなくなる世界が近づいているということですね。それはまさにARとファッションの領域という印象があります。

awai:そうですね。自分はファッションを通じたコミュニケーションには2種類あると考えています。ひとつがさきほどから話題に出ている「他者とのコミュニケーション」。そしてもうひとつは「自分とのコミュニケーション」です。

 たとえば好きなブランド、こういう思想のブランドの洋服を着ていると、自分もそのブランドと同じ気持ちになれる、といったもの。僕は好きなブランドであるコムデギャルソンの服を着ていると、ちょっと強い自分になれる気がする。部活では、かっこいいバスケットボールシューズを買うと、そのバッシュを使っているプロプレイヤーと同じように上手くなった気がしてより頑張れる、みたいな。

 装いを通して自分とコミュニケーションを取ることって実は多いし、他者とのコミュニケーションの中で自分がどう見られたいのかをコントロールできなくなったときには、より自分とのコミュニケーションが重視されていくのかなと思っています。自分がこういうモチベーションでいたいから、こういうふうな気持ちでいたいから、その装いをするように変わっていくのかなと。

 いまのファッションの良いところでも悪いところでもあるんですけど、他者とのコミュニケーションとか、トレンドとかモテたいとか、そういうところにやっぱり意識が行きがちなように感じます。けれど、そこから開放されると、自分がこういう格好をしたい、自分のテンションが上がるから、自分のために装う。行き着いた先にそういう光景があると楽しいなと思っていますね。

 たとえば1990年代〜2000年代の原宿には、尖った格好をした人がすごく多かったし、そういう格好をしている人たちを見て、楽しいとか、微笑ましいなと感じていました。そこは「相手にどう見られたいか」より「自分がどうありたいか」が優先される場だったからです。

 10年代になるとそれがトレンドに集約されて、みんな普通のシンプルな格好になっていったことに寂しさを感じました。XRとか今のコントロールの話の先に、そういう「自分であるための装い」が戻ってくるんじゃないかと思っています。

それぞれ違った見た目で見ていたら「この選手の、このバッシュ」が成立しない

DJ RIO:「自分のために装う」と言っても、本当に他の誰からも見られていない世界において、自分だけのために装うという行為が生まれるのだろうか?と思ってしまう部分もあります。

 みんな、何かしらの自己表現とか「こういう気分になりたいから装う」みたいな思いって持っていると思うんですけど、それもやっぱり「人から見られること」があってこそ、その価値観が形成されるんじゃないかと。

 たとえばさっきのバッシュの話は、選手ごとのモデルがあって自分がリスペクトしている選手のバッシュを履きたい。けれど、それはつまりその選手が選んだバッシュを自分たちが強制的に見せられているから「この選手の、このバッシュ」と認識されるわけです。

 バスケファンがその選手のバッシュをみんながそれぞれ違った見た目で見ていたら「この選手の、このバッシュ」が成立しないんですよね。

awai:「この選手の、このバッシュ」と認識しているからこそ、そのバッシュに価値が出る。たしかにそうですね。

DJ RIO:結局、誰でも他人を自分の好きなように見ることができてしまったら、服を買う必要がなくなる。むしろ「自分が着るもの」という市場が消滅して「人をどう見たいか」というものにお金を払うようになるのかなと。……とはいえよく考えたら、物理空間でもメタバースでも街中を歩いていて、通りがかる知らない人たちみんなの見た目をコントロールしたいなんて欲求は生まれない。せいぜい不快なものをミュートとするとかはやるとしても、みんなを自身の都合よい見た目に上書きしたいとは別に思わない。

 なので、やはり自分がどう見られるかコントロールする、それに価値を感じてお金を払う行為は別になくならない気もします。

awai:いまお話に出たように、自分が設定している装いで見てくれる人、自分の設定とは違う装いで見る人、どちらもいる状態になると思うんですよね。コントロールされうるし、自分が見たいようにも見せられる。コントロールされていない人にとっては「こう見えたらいいよね」だし、コントロールされているんだったら「それはそれでそういうのもあるよね」となるんじゃないかと。

ーーフィルターバブルの議論に近いかもしれないですね。どう見られたいか、どう見せたいかの意識もSNSの登場で劇的に変わりました。

DJ RIO:当たり前ですが、「自分の見せたいように見せる」ことができた方が豊かな世の中だし、それが見る側の他人に上書きされることによって意味を失う世の中になったらたまらないなと思っていました。今日いろいろ議論して、みんながみんな人をどう見るかを自分で全部コントロールしなきゃいけないなんて面倒くさいし、デフォルト設定の人が多くなると考えると、実際自分が見せたいように見せることの重要性と必然性は多分消えないだろうなと感じて、少し安心してきましたね。

awai:それこそ「なりたい自分で、生きていく」というところに戻ってくるお話ですね。

DJ RIO:そうなんです。結局、自分でコントロールしたいですからね。

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