『ヘブンバーンズレッド』 その核をなす、麻枝准というクリエイターの「最大の武器」と「人生」
WFS×Keyよりリリースされたスマートフォン向けRPG『Heaven Burns Red(ヘブンバーンズレッド)』(以下『ヘブバン』)。サービス開始後3日で100万ダウンロードを突破するなど、好調な滑り出しを見せている……らしい。らしいというのは、基本無料であるスマホ向けゲームアプリ市場において、ダウンロード数というのがいかなる意味を持つのか、いちユーザーとしてはどうにも掴みかねるところがあるからだ。
と、こんな風に書き出すと、筆者がこのタイトルについて興味がないように思われるかもしれないが、実際は逆だ。売れるか売れないかというのは筆者にとっては二の次。このタイトルが世に放たれたということ、それ自体に大きな意義があると思っている。そう、本作は麻枝准という、アニメ・ゲームコンテンツ史にその名を刻むクリエイターによる「15年ぶりの完全新作ゲームタイトル」にして、ひとりの生死の淵から帰還した人間による「第2の人生」の集大成なのだ。
麻枝准の最大の武器「演出力」はゲームでこそ発揮される
麻枝准とは何者か。
PCゲームブランド・Keyのシナリオライターとして『AIR』『CLANNAD』『リトルバスターズ!』などのヒット作を手がけ、近年は『Angel Beats!』『Charlotte』『神様になった日』といったオリジナルアニメの脚本を手がけている……というのが、通り一遍の説明として浸透しているものかと思う。先に挙げた3作品含め、関わったゲームタイトルの多くがアニメ化されていることも手伝い、近年になって彼の存在を知った人ほどアニメとの連関で捉えている人が多いはずだ。
しかし麻枝准とは根っからの「ゲームクリエイター」である。いま一度そのことを思い出させてくれるのがこの『ヘブバン』なのだ。
まず、本稿において「ゲーム」が何を意味するかを整理しておきたい。ライター・評論家のさやわかによる秀逸な定義によれば、「ボタンを押すと反応する」のがゲームである(『僕たちのゲーム史』、星海社新書、2012年)。これによって、麻枝が主戦場としてきた恋愛アドベンチャー/ビジュアルノベルにおける「キャラクターとのコミュニケーション」の要素も、「ゲーム的(ゲームでしか味わえない)体験」のうちに数えることができる。通常、この種の作品において「ゲーム性」と捉えられるのはストーリー分岐を促すいわゆる「選択肢」の要素だが、この定義によればクリックorタップすることでキャラクターの表情が変化したり、テキストや静止画、音楽の流れるタイミングが制御されるといった要素も紛うことなき「ゲーム的」体験と言えるからだ。
そしてシナリオライター・麻枝准の作家性とは、そうしたユーザーとのインタラクションの中でこそ活きるものなのである。
昨年初の小説作品『猫狩り族の長』を発表したものの、基本的に麻枝のシナリオライティングは作詞のニュアンスに近い。そもそも、麻枝のルーツは音楽のほうにある。学生時代からPCソフトでの作曲に勤しみ、卒業後は作曲家志望としてゲーム会社の門戸を叩いたが叶わず、当時未経験でも応募することのできたPC向けゲームのシナリオライターとして業界入りしたという経緯を持っているのだ。
麻枝の「作詞的」なシナリオのセンスは、短いセンテンスで画面いっぱいに表示されるモノローグと、ギャグシーンにおける特定のフレーズの繰り返し(いわゆる「天丼」)に顕著に見られる。テキスト送りのタイミングはユーザーの「ボタンを押す」という行為によって制御され、そこに麻枝自身の手がけたBGMや挿入歌がぴたりと重なることで、この上ない情動が喚起されるのだ。よく麻枝の作風の特徴として言われる「愉快な日常と、泣きを誘う展開とのコントラスト」も、落差やギャップによってもたらされるものではなく、定型的なリフレイン(日常)を繰り返した上で一気にサビ(感動)が来るという、ダンスミュージックのコンポジションに近いテクニックが用いられていると言える。ユーザーはメロディーや音色を身体に馴染ませるがごとくキャラクターやその関係性への愛着を深め、彼女たちが人生の重大な決断を迫られるタイミングで、それまでの日常が戻ってこないという実感に胸震わされるのである。
つまり、「シナリオが書ける作曲家」という形容でも「作曲ができるシナリオライター」という形容でも、麻枝准という才能の真価を捉え損なってしまう。いわば、ユーザーと作品との出会いの場を設計する「演出力」こそが麻枝准の最大の武器なのだ。
これは、麻枝が近年注力してきたオリジナルアニメにおいては、その真価が十全には発揮されてこなかったことを意味する。アニメの制作では、通常脚本が最初に書かれ、その後絵コンテ作成、セリフの収録、アニメーターの原画作業、劇伴・音響効果を組み合わせる編集……といった工程を辿る。その全体を指揮し、総合演出を担うポジションは監督で、脚本家は基本的にその始めの部分に関わる存在でしかない。ゲーム開発の現場においては麻枝が細かくディレクションできていた、「クリック後、コンマ何秒でイベントスチルを表示するか」や「BGMをどのタイミングで流すか」などのタイミングコントロール、キャラクターの表情差分の数、ボイスキャストの発声ニュアンスなどの監修について、少なくともそれと同レベルにコミットすることは難しかったのがアニメの現場であろうことは想像に難くない。
しかし、『ヘブバン』の開発においては、そうした難点が完全に払拭されているのではないかと感じる。インストールし、ゲームを触り始めて真っ先に驚かされるのは、日常パートのテンポのよさだ。天然気味の発言を繰り返すボケに対し大きく声を張り上げるツッコミというギャグシーンの定形は、ここ10年放送されてきたアニメ作品と方向性は変わらない。しかしそれが画面タップとそれに対するレスポンスというインタラクションを噛ませることで、こんなにも心地よい体験になるのかと驚かされるのだ。
実際、この辺りは麻枝によるかなり細かいディレクションが行われたことが、公式YouTube番組「ヘブバン情報局」での本作プロデューサー・柿沼洋平(WFS所属)の発言により示唆されている。麻枝は「リテイク魔」であることを度々自称し、それゆえに他者との軋轢を生んでしまうと自嘲気味に語ることも多いのだが、それはひとえに作品のクオリティを上げたいという一心によるもの。今回はKey(ビジュアルアーツ社)での一社開発ではなくスマホゲーム開発のノウハウを持つWFSとの共同事業だが、そんな麻枝の熱量を本気で受け止め、改善提案もしっかりと出してくれるスタッフが組織の垣根を越えて集っていることが窺い知れる。なかでもユーザーの潜在需要を戦略的に定式化し、「なぜいまこのゲームを作るのか?」をきわめて理知的に記述した『ヘブバン』の開発統括・下田翔大(WFS所属)のnoteおよび、今回のために絵柄まで変えたといい、これまた理知的にその必然性を語るキャラクターデザイン担当・ゆーげんの「ヘブバン情報局」でのトークは一見の価値ありだ。
こうした「ゲーム的」演出の一貫として、これまでの麻枝作品にはなかった音楽の使われ方が見られることにも注目したい。『ヘブバン』にはリリース時点で10曲、フルアルバム一枚分並みのボーカル曲が収録されており、各楽曲はオープニング/エンディングだけでなく、戦闘パートのBGMとしても流れることになる。そもそも、本格的なRPGを手がけることは今回が初めてとあって、「ゲーム内で流れることを想定した、戦闘パートに適したボーカル曲」というもの自体、麻枝の作曲史上初めての試みだ。従来の「切なさ」に加え、緊張感を高めるメロディーの展開には明らかな新境地を感じ取ることができるし、クラシックなオペラを思わせる重厚なコーラスなど新しいサウンドも導入されている。なお麻枝はPCで作曲を行うが、現代的なDTM環境ではなく90年代から存在する数値入力での打ち込みをいまだに行っている。本作のボーカル曲に見られる曲調の多彩さには、ほぼすべての楽曲の編曲を手がけるアレンジャー・MANYOの貢献も大きいことは特筆しておくべきだろう。
またここで、今回のボーカル曲の大半を歌唱するやなぎなぎとのタッグで発表した『終わりの惑星のLove Song』(2012)の存在も振り返っておきたい。「滅びゆく惑星で紡がれる13のLove Song」をキャッチコピーとする同作は、収録曲それぞれがファンタジーやSF的な物語を描きながらも全体としてひとつの世界観を構成するコンセプトアルバム。過去の麻枝作品の中でも最もRPG的な、『ヘブバン』に近い世界観を持った作品である。リードトラック「終わりの世界から」が海外ファンに熱く支持されるなど根強いファンを持つ作品だが、一曲の中で設定をいちから説明しなければならなかったため、自ずと「なぜ武器を取り戦わなければならないのか?」といった状況説明的な歌詞が多くなる難点もあった。一方『ヘブバン』においては実際にキャラクターが戦闘を行ってみせるため、そうした説明を歌詞の中で行う必要がない。歌詞に散りばめられたメタファーも、世界観に沿ったものでありつつ私たちの現実にもつながるような絶妙なバランスとなっており、過去最高傑作と言いたくなるようなフレーズがいくつもある(歌詞カードを読みながら聴ける日が待ち遠しい)。両作品の比較からは、麻枝の作家性はシナリオだけでなく歌詞においても、ゲームというインタラクティブなメディアの中でこそ輝く側面を持っているということが言えるだろう。