『あつまれ どうぶつの森』の拡張可能性と、パンデミックで見落としていた問い
娯楽と拡張現実的想像力との関係について考えたところで、最後にもう一つ問いを加えよう。「拡張現実的な想像力が求められるのは、娯楽に限った話なのだろうか? 私たちの内面にもかかわっていないだろうか?」という問いだ。
SNS社会に生きる私たちがアイデンティティを記述するとき、何をして、誰と会い、どこに行ったのかを記録することで行う。「YouTubeで○○の動画を見た私」、「恋人とこんな場所でデートをした私」、「こんな曲が好きな私」といった形で、「私」にあらゆる情報を付け加えることでアイデンティティを記述する。これは『あつ森』において、「家具」や地形を自由に組み合わせることで、すなわち「無人島」にあらゆる情報を付け加えることで、土地のあり方やキャラクターのあり方、そして「無人島」(=ゲーム内における現実)そのもののあり方を決定するやり方と似ていないだろうか。「無人島」と同じように、私たちはアイデンティティを記述するときにも、「いま、ここ」にいる「私」に任意の情報をインストールしてその意味を読み替える、拡張現実的な想像力を用いている。
ただし、このようにして拡張された自己は、現実では他者からの承認を過剰に欲している(がゆえにストレスを生み出すことがある)ように思える。たとえばSNSで「(リプライを送ることで)芸能人と距離が近い私」、「マイナーな曲を聞けるセンスのある私」、「(政治家への文句をつぶやくことで)世間を批判的に観察できる知的な私」というような形でアイデンティティを誇大に拡張する演出はもはや見慣れた光景であり、筆者も似たような形で承認を求めてしまう人間の一人だ。こうしてアイデンティティを記述しているうちに、逆に「何かに頼らなければ満足に承認を受けられない自分」を強く自覚して等身大の自分を見失ってしまうことは、日ごろよく経験する。
しかし、『あつ森』の世界ではそんなことで悩む必要はない。と言うのも、たとえばインフラや島内施設の開発に成功すればそのたびにたぬきちが「セレモニー」を開いてくれるし、しずえは島の景観の評価基準を簡単に示してくれるし、なによりプレイヤーの開発した土地で住人(どうぶつ)たちが幸せそうに暮らすといった形で、プレイヤーの行動は手軽に承認されるからだ。『あつ森』の世界は、私たちが常に欲望として抱いている拡張現実的な想像力がほとんど無条件に称賛される、ある種のユートピアとして存在している。
こうして考えてみると、『あつまれ どうぶつの森』というゲームが娯楽的にも心理的にも、(偶然ではあるが時世的にも)非常に優れた応答を示してくれた作品であるように思える。もちろん『あつ森』の世界は理想化されたゲーム空間に過ぎず、現実ではそううまくはいかない。あんなに簡単に「もようがえ」ができるわけないし、先に述べたような悩みも生じてくる。しかし、だからこそあの島の住人のように生きられたらどんなに豊かな人生だろうか、と思わずにはいられない。
ゲームの力に頼ることなく、そして等身大の自分を見失うこともないまま、「いま、ここ」の現実を拡張できる想像力を自由に発揮することができたとき、私たちは『どうぶつの森』というゲームを「クリア」したと言えるのかもしれない。
■徳田要太
フリー(ほぼゲーム)ライター。『スマブラ』ではクロム使いで日課はカラオケ。NiziUのリク推し。Twitter