【ネタバレあり】『The Last of Us Part 2』は、映画を最も震え上がらせるーー映画評論家・小野寺系が“問題作”の可能性を考える
名作と呼ばれた前作
シリーズの舞台となっているのは、文明が破壊され、荒廃したアメリカ。謎のウィルスが蔓延し、感染した人間がゾンビや化け物のような姿になって人間を襲うようになったことが、そんな世界を作り出した原因である。主人公は、ウィルス騒動によって愛する娘を亡くして以来、孤独な生活を続けてきた中年男のジョエル。彼は、14歳の少女を目的地に運ぶという仕事を依頼される。感染者や人間の略奪者から身を隠し、ときに殺害しながら、徒歩で進んでいくジョエルと少女は、生き残るため協力することで、次第に絆を深めていく。その道中、その少女エリーはなんとウィルスの抗体を持つ奇跡の子どもだということが発覚する。
本シリーズのジャンルは、いわゆるステルスアクションである。限られた武器弾薬を駆使して、立ちふさがる人間や感染者たちを排除しながら進んでいく。生き抜くためには、敵の背後に回り込んで不意打ちを仕掛け、できるだけ自分の被害や消費を最小にすることがコツとなる。一度見つかると敵が一気に集まってくるため、緊張感あふれるプレイが要求されることになる。また、ドラマ部分では、多くのゾンビ映画やドラマの設定を下敷きにしながら、アルフォンソ・キュアロン監督の映画『トゥモロー・ワールド』(2006年)を思い起こさせる、人間が滅びていく未来への絶望と、救いのない展開がシリアスに描かれていく。
第1作のクライマックスは衝撃的なものとなった。ファイアフライという武装組織がエリーを迎え入れると、彼らは彼女の身体を使ってウィルスのワクチンを開発しようとする。しかし世界を救う代償として、エリーは死ななければならないのだという。苦悩したジョエルは、決心を固めるとファイアフライの研究施設の職員たちを次々に殺害し、エリーを救い出すことに成功する。そして、目覚めたエリーに対して、ジョエルは嘘をつき、彼女を罪悪感から遠ざけようとするのだった。
人類の未来を犠牲にして、そして研究施設の人々の命をも犠牲にして、一人の少女の命を助ける。エリーはジョエルのなかで、いつしかそこまで大きな存在になっていたのだ。この苦々しくも感動的なストーリーを、多くのプレイヤーは支持し、『The Last of Us』は名作と呼ばれるまでになったのだ。
序盤から衝撃的な展開が起こる続編
第一作の評価を受け、大きな期待を寄せられた続編『The Last of Us Part II』は、人間たちのコミュニティがある、ジャクソンという街から物語がスタートする。そこには、穏やかに暮らすジョエルと、19歳になり成長したエリーが住んでいる。エリーは仲の良い女友達のディーナと、恋人として付き合いだしたばかりだ。
だが、そのストーリーのなかで、ファンにとって序盤から大変な事態が起こる。前作の主人公ジョエルが、数人のグループに拉致されると、執拗な拷問を受けて殴り殺されてしまうのである。エリーはジョエルを助けようとするが、したたかに打ちのめされた挙げ句、見逃されてかろうじて生き延びることができたのだった。
ジョエルのあっけない死に、多くのファンはショックを受けることとなった。そして主人公は、ジョエルの復讐を誓うエリーへとバトンタッチする。ジョエルを惨殺したグループの首謀者は、アビーという女だ。彼女への復讐を果たすため、エリーとディーナは、アビーが所属する武装組織WLFの拠点があるシアトルへと旅立った。
本作は前作同様、感染者や敵対組織を、できるだけステルス状態で倒しながら目的地へと進んでいくというゲームシステム。ただ、暗い屋内で感染者が次々に襲いかかってくるステージはホラーゲーム並みに怖ろしく、筆者のように怖がりのプレイヤーの場合、冷静な対処が難しくなってしまう。ちなみに筆者は一部のステージを涙目で攻略しており、暗闇のなかをただ走り回りながら刃物を振り回すだけという、戦略も何もないプレイでなんとかやり過ごす場面が幾度もあった……。
このように心が弱くなっている状態で、シアトルの病院に行かなければならないという展開になったとき、直感的に「病院に行くのは絶対に怖いな……いやだな」と思ってると、意外にもそこは感染者がいないステージだったので、「本当に良かった」と、心から安堵したものだった。だが、このように油断させておいて、じつは終盤にまた病院に行かねばならないという、鬼畜のような展開が用意されている。本作の制作者は、そんな心の弱いプレイヤーの心理を全部お見通しだったのである。
批判の的となった“アビー編”
本作が物議を醸すのはここからである。エリーを操作してステージを進めていくなかで、彼女は復讐のためとはいえ、あまりにも多くの人々や、そのお供をしている犬たちを、次々に殺害していくことになる。プレイヤーはエリーによる殺しを、画面とコントローラーを通して体験させられるのである。その作業を続けるなかで、「こんな人殺しを続けていくことに、本当に意味があるのか?」という問いがプレイヤーに生まれてくる。そして、命を落としたジョエルは、こんな展開を望んでなかっただろうということが、いくつかの過去の回想によって実感させられるのだ。
その後、本作はついに問題の展開へと突入する。エリーのストーリーは途中で断ち切られ、ゲームは“アビー編”へと切り替わる。そう、そこからはジョエルを拷問して殺害した、憎き首謀者アビーの視点でプレイしなければならなくなるのである。このアビー編は、なんと全体の半分近くもある。プレイヤーは嫌いなキャラクターを、中盤から終盤まで主人公として操作しなければならないのだ。
この趣向を、一部のファンは嫌がらせだととらえたり、制作者の判断ミスだとして、怒りを爆発させることになる。だが、もし本作が映画作品であれば、こんなにも怨嗟の声があがることはなかっただろう。この反応は、ゲームと映画の特性や、文化の違いによるところも大きいのだと、とりあえず理解しよう。
その考えでいくと、大きな要因となるのは総プレイ時間である。クリアするまでのおよそ20数時間のプレイに対し、10時間ほどアビー視点でプレイを続けるということは、映画の鑑賞時間をはるかに超える時間をアビーと過ごさねばならないことを意味する。さらにそれを自分の手で操作しなけらばならないというのは、確かに苦痛を感じさせる部分かもしれない。
そしてもう一つは、達成感である。ゲームのプレイヤーというのは、試行錯誤して攻略していくことで、報われたいという願望を感じがちだということだ。せっかくプレイしているのだから、自分の行動によって、ゲームの世界で何か良いことが起こって欲しいと願うのが人情である。にもかかわらず、本作はプレイしながら、どんどん不幸な方向へと突っ込んでいくのだ。