『レッド・デッド・リデンプション2』はなぜ「現代の西部劇」なのか 映画的側面から読み解く

 開拓時代が終わるアメリカの無法者として、荒野を馬で駆け銃を撃ち合うなど、西部劇の主人公になりきって遊べる大ヒットゲーム、待望の続編『レッド・デッド・リデンプション2』。前作からコンセプトやゲームシステムに大きな変更はなく、より複雑で詳細に作り込まれた、ワイルドな西部の世界がまるごと楽しめるのが魅力だ。

 ここでは、そんな『レッド・デッド・リデンプション2』を、操作性やゲームバランスではなく、「西部劇」としてどうなのかという視点で、映画史やゲームの描写を例に挙げながら、本作のより深い楽しみ方を提案していきたい。

 ゲームを開始するとすぐに始まるのは、強盗計画に失敗した、主人公アーサー・モーガンとギャング団、その妻子たちが、雪山を超えて新天地に逃亡しようと難儀するエピソードである。「西部劇」といえば、多くの人々がイメージするのは、タンブルウィード(草のかたまり)が転がる荒野や、サボテンが散見される砂漠地帯や岩場などの乾いた景色であろう。しかしここでは、いきなりロッキー山脈と思われる雪景色の高地が舞台となり、吹雪や寒さが主人公たちを襲うという、意外性を狙った試みがみられる。

 最近では、クエンティン・タランティーノ監督の映画『ヘイトフル・エイト』(2015年)が、同様の舞台で西部劇の世界を描き、強い印象を残した。このような映画の元祖といえるのは、幌馬車隊が厳しい自然のなか様々な苦難を越えて西部へ西部へと進んでいく、ジェームズ・クルーズ監督のサイレント映画『幌馬車』(1923年)である。

 『幌馬車』は冒頭、このような字幕とともに始まる。「アメリカの血は、開拓者の血である。未踏の自然から輝かしい文明を切り拓いた、獅子の心を持った男たち、そして女たちの血である」…『幌馬車』や、大陸横断鉄道を敷設する『アイアン・ホース』(1924年)など、単なる娯楽映画だと考えられていた西部劇は、やがてアメリカの建国につながっていく「開拓精神」が重ねられることで、力強いダイナミズムやカタルシスが与えられることになった。これこそが、それ以降の西部劇の「核」となる部分となっていく。

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