日本のアニメはなぜフルCGを忌避し“ハイブリッド”な画面づくりを続ける? その理由を読み解く

大転換が起こらなかった日本のアニメーション

 対して日本の劇場アニメーションはというと、例えば杉井ギサブロー監督の『銀河鉄道の夜』(1985年)のごく一部で実験的にCGが使用されるなど、部分的な使用というのは早くから見られていたが、基本的には手描き技術が表現の核であり続けたといえるだろう。『もののけ姫』(1997年)や『千と千尋の神隠し』(2001年)が空前の大ヒットを記録するなど、2000年代に入ってすら、従来の手描き技術を中心とするスタジオジブリの劇場アニメーション作品に圧倒的な人気が集まっていた。ここでも部分的にCGが使われているように、ジブリが選び取っていたのは、一時期のディズニーが行っていたハイブリッドな手法だ。

 日本では、このスタジオジブリの成功に比肩するフルCG作品が出現しなかったということが、CGへの舵がきられなかった要因になっているように思える。最終的に観客の心をつかむのは手法よりも、あくまで総合的な“作品の質”である。90年代より、もはや絶対的存在となっていた宮崎駿監督をはじめ、このとき日本アニメのトップクリエイターたちが、フルCGによる制作を行わなかったことも、現状をかたちづくったといえよう。しかし、なぜフルCGは有力な既存のアニメーション作家たちに忌避されたのだろうか。

 CGが数多く使われながら、キャラクターをやはり職人的な手描きで表現した『イノセンス』(2004年)を手がけた押井守監督は、ここでハイブリッドな手法を選び取ったことについて、歴史のなかで洗練されてきた手描き技術と、現在のCGアニメーターの技術レベルにまだ差があること、そしてまだCGに対する映像表現に観客が慣れていないという意味のことを述べている。つまり、押井監督が選択した手法は、たまたまそのときにベストな表現方法だったということに過ぎない。宮崎駿監督も短編『毛虫のボロ』(2018年)において、フルCGによる制作を目指したが、満足のいかない部分を最終的に手描きで作り直すという選択をしている。

 たしかに『イノセンス』には、沖浦啓之や黄瀬和哉のような「スーパーアニメーター」と呼ばれるような傑出した作画技術を持つアニメーターが集結しており、合成されるCGに拮抗するまでのヴィジュアルと動きを作りながら、そこに魂が込められているような表現を完成させている。このように要所要所の見せ場を、そのシーンにふさわしい優れたアニメーターにどれだけ担当させることができるかというところが、日本の手描きアニメーションの質に大きく関係している。

 しかし、そのときのベストを選択し続けることが、長い意味においてベストとであるとは限らない。『イノセンス』のようにCG表現に追いつくようなヴィジュアルを発揮させるような無理が効くのは、劇場作品のなかでもごく一部の作品に限られてしまい、継続的なものにはなりづらい。また、シーンごとにアニメーターによって微妙に絵柄が変わることは、手描きアニメを見る楽しみである反面、そこまで予算も期間も与えられない多くの作品では、場面によってクオリティーが著しく落ちてしまうことがよくある。

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