『DIGGER/ディガー』はなぜ興行的に惨敗したのか イニャリトゥ監督の風刺の有効性を問う

 議会のセットを縦横無尽に利用したトム・クルーズの演技の迫力と、その強引な指摘に、世間のディガーへの一方的な怨嗟は、“賛否両論”のところまで持ち直すことになる。だが、強烈な違和感は残る。彼の主張は、部分的にはうなずける部分もあるとはいえ、冷静に考えると、ほとんど詭弁だからである。彼の主張では、現実的には社会において決定権のある有力者が限られていることや、エネルギーの利益をさほど得られていないのにもかかわらずリスクにさらされる若い世代や貧困者、後進国の人々の存在を無視しているのだ。そして石油以外の選択肢を意図的に矮小化しているところなど、反論できる部分が山ほどあるのだ。

 この種の稚拙な主張は、例えば、日本の原発政策を批判していた坂本龍一に対して、「これまで散々電子音楽を発表してきておいて、電気のビジネスを批判するな」などと指摘するような意見や、環境活動家のグレタ・トゥーンベリが燃料によって移動し活動していることを揶揄しているのと変わらない。こうした批判は、社会問題に意見を言う者に“既存の技術を捨てて文明社会から退場しなければ社会について批判してはならない”という、論点をずらした無理な難題をふっかける“言いがかり”に過ぎないと考えられる。

 こうした詭弁を駆使することで、株価を回復し、またしても現状を維持することに成功したディガー。しかし、その後の巨大氷山事件によって、世界は本当に暗黒に包まれることとなるのだ。目先の利益のために、現実の問題を常に先送りにすることで、ついに究極のしっぺ返しを食らう。これは、環境問題がたびたび話題にされ、実際に異常気象や気温の上昇が世界規模で起こっているのに、社会システムは基本的にほとんど何も変化していないという、われわれの生きる現実そのものでもある。

 劇中で、環境問題をうったえてきたアル・ゴア元アメリカ副大統領の名前が出てくるように、温暖化の緊急的なリスクは、前々から科学者や社会活動家を中心に指摘されてきた。しかし、現在のアメリカはどうか。トランプ政権は時代に逆行するように、気候変動対策やCO2排出規制についての法律を次々と撤廃、緩和していった。それは、ディガーのような大企業のトップと共犯関係にある劇中劇の大統領(ジョン・グッドマン)の方針にも重ねられる。

 目の前の問題から目を逸らし、アメリカの有力者たちが大統領の体に触れ、神への祈りを捧げているという、国の決定機関そのものがカルトに毒されているかのような悪夢的な光景は、トランプ政権の実際の姿そのものでもある。これは、意図的にイニャリトゥ監督が仕掛けた、直接的な風刺であることは言うまでもない。

 本作のラストは、この舞台を鑑賞した人々が、汚染されきった外界に出て、めいめい自宅に帰っていくところが描かれる。これは、舞台劇を観ることで怒りを発散させ、悪人の末路を確認して、快哉を叫びながらカタルシスを得たところで、結局は世界の現状が変わっていないという、皮肉な構図を表現している。その指摘は、じつは本作の観客にも浴びせられているようにも感じられる。この種の映画を観て、そのときだけ社会問題への批判に参加しているような気分になったとしても、映画館を出たあと、単に状況に流され、どうせ何もしないんだろうと。

 イニャリトゥ監督が劇中劇を用意した意図は、そこにこそあるのだろう。トム・クルーズが演じる俳優カーティスは、たびたび「役柄の設定にリアリティがない」と、演出家に文句を言っていた。その姿は、スタンリー・キューブリック監督の政治風刺コメディ『博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか』(1964年)のキャラクターにも似ている。そうした違和感の表明の背景には、一人の人物を極端に悪魔的で滑稽な存在に単純化し、怨嗟をそこに集中させることで、自分自身には責任がないように振る舞えるという構図に対する、イニャリトゥ監督の違和感があるのではないか。

 確かに、そういう面はあるのだろう。本作で描かれた舞台の観客は、一時だけ盛り上がり、悪役が消えたことに満足しただけだ。環境汚染問題は何も解決していないのに、なにかが解決したような気になっている。満足した分だけ、行動しようとする意欲が消費されたのである。だからこそ、こうした絶望的なディストピアを見せるラストシーンに意味があるといえよう。

 そうした提言に同意できるところがある一方で、この皮肉なラストにも、筆者は強い違和感をおぼえた。本作は、興行的に大惨敗を喫している。それは、そもそもこうした環境問題を深くえぐろうとするテーマ自体に、人々がそれほど関心を持っていないからなのではないか。こうした内容に金銭を支払ってまで劇場に駆けつける観客というのは、そもそも社会問題に関心がある層なのだといえるだろう。だから監督が批判するべきなのは、こういう作品を消費する観客というより、むしろ本作を観にこないような人々であるべきではないのか。

 言うだけ言って具体的な行動に出ない、“意識高い系”を装う人々には、確かに問題はあるのだろう。しかし、それよりもはるかに大勢の、社会問題に言及することすらしない人々、環境問題に逆行する政権の熱烈な支持者のような人々をこそ、まずは批判しなければならないのではないか。劇中では、若い女性の演出家の取り組みが、単に観客の憂さ晴らしにしかなっていないことを表現していたが、イニャリトゥ監督がそんな演出家に比べ、“より状況を俯瞰して見られている”とする根拠は何なのか。単に批判する対象をずらしただけではないのか。

 環境問題を解決しようと活動しているのは、グレタ・トゥーンベリだけではない。世界各地で、若者などによる現状のシステムの問題を追及し、社会を変えようとするデモが起こっている。事態に対して何もしない人ばかりというわけでもない。そして、問題意識を持って発言する人々が、一時の気晴らしだとする見方もまた、実態の極度な“単純化”なのではないかと思えてくる。そこを批判するのであれば、単純化を指摘するイニャリトゥ監督自身の目線もまた問われなければならないのではないか。

 本作は権力者の単純化を批判していながら、その実、民衆を単純化しているところがある。そもそも、人間がなにかをするとき、意見を表明するときに、打算や功利主義、承認欲求などが一部入り込むことは当然のことではないのか。それは、イニャリトゥ監督やトム・クルーズなども同様であろう。特権的な表現者や、ディガーのような人物が複雑な存在だと言うのであれば、観客もまた複雑であり、さまざまなグラデーションのなかでいろいろなことを考え、自分の行動に結びつける準備をしているのではないのかと言いたくなる。

 そこまでも茶化してしまうのだとすれば、イニャリトゥ監督は果たしてこれまでアクティビストとして、作品をつくり政治的発言をする以外の、具体的な社会運動をどれだけやってきたのか、そうでないとするなら、凡百の社会問題を描いた作品群との違いを、本作は持っているのかという、厳しい目にさらされる必要も出てくるだろう。実際、イニャリトゥ監督と劇中の演出家を隔てるのは、“自分の方が優れた認識を持っている”という自己評価だけではないのか。変わらない社会への苛立ちがリベラル批判にまで達するところは、理解できなくもない。しかし、そのことで監督自身の表現者としての足場までも、今回は崩してしまっているように見えるのである。

■公開情報
『DIGGER/ディガー』
全国公開中
出演:トム・クルーズ、ジョン・グッドマン、ザンドラ・ヒュラー、ジェシー・プレモンス
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
製作:トム・クルーズ、アレハンドロ・G・イニャリトゥ
配給:東和ピクチャーズ・東宝
©2026 WBEI and Legendary
公式サイト:https://digger-movie.jp/
公式X(旧Twitter):@warnerjp

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