『ママがもうこの世界にいなくても』はジャンル映画を逸脱する 作品に潜む“異様さ”の正体

あの山戸結希監督が手がけた新作のタイトルが、『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』だという報が届いたとき、一瞬耳を疑ったのは、筆者ばかりではないだろう。実話の映画化とはいえ、余命、闘病を題材にした感動作のイメージと、研ぎ澄まされた先鋭さで日本映画界に衝撃を与えてきた山戸監督とのイメージとが、うまく重ならないのだ。
正直なところ複雑な思いで鑑賞した本作『ママがもうこの世界にいなくても 私の命の日記』に感じたのは、まず、しっかりと感動作として観客から求められるものを提供できているということ。それは、国内映画ランキング初週トップを記録しただけでなく、口コミなどの影響により、先日、公開3週目にして再び1位に返り咲いたという事実を見ても理解できるところだ。そして、たしかに破壊的といえるほど強い山戸監督の演出は、これまでに比べると抑制されていると感じられる。
では山戸監督は、日本のヒットメイカーという位置に落ち着いてしまうのだろうか。あの唯一無二といえるアグレッシブな才能は萎んでしまうのだろうか。しかし本作には、たしかにジャンル映画を逸脱する“何か”を感じるのである。いったい、その正体は何なのだろうか。ここでは、本作に潜んだ異様さの正体について考えてみたい。
舞台となっているのは青森。ランドマークである、三角おにぎりのような建物・青森県観光物産館が何度も映るので、訪れたことのある観客は、すぐに分かるだろう。そんな地で出会ったのは、川口春奈演じる和(のどか)と、高杉真宙演じる将一だ。ときにケンカをしながらも愛情を育んでいく、ひと組の男女だったが、ある日、突如として和が倒れる。そして、ステージIVのがんであることが判明するのだ。
彼女の場合、効果的な治療は限られ、残された時間が限られているとも伝えられる。がんであると伝え、別れた方がいいかもしれないと伝える和。それでも離れないと言う将一。二人が病院の非常階段で抱き合う様子を捉えたショットは、本作のなかでもとくに美しい。その後、二人は青森港を望む結婚式場で、和の両親、妹たち、親族や友人たちの前で永遠の愛を誓う。そして和は、治療を遅らせてまで希望していた出産へと向かおうとするのだった。
痛みを感じるほどに、ざらついた鮮烈さをスクリーンに刻んだ『溺れるナイフ』(2016年)、それに加えて、写真を組み合わせて編集していく実験的な趣向が目立った『ホットギミック ガールミーツボーイ』(2019年)と、山戸監督の先鋭化していった手法は、本作にも確かに見られるが、ここではだいぶ抑制され、少なくとも監督の長編作品として、最も説明的で見やすい映像になっていると感じられる。
とはいえ、このバランスは、多くの観客にとって好感触だったようだ。もともとの山戸監督の感覚的な“少女漫画的”といえる、被写体を撮りたい方向で素早くスイッチしていく映像づくりは、コアなファンとしては、やや不満をおぼえるものの、この抑制によって心地よく楽しめ、題材に集中させられるようになったのではないか。果たして、今後このバランスを新たな手法としていくのか、それとも次作以降は実験に回帰するのかは、監督次第というところだろう。
本作の物語としての大きな葛藤となるのは、余命が短いと宣告されている上で出産することの是非だろう。生まれてくる子どもの成長を考えれば、親の気持ちを優先していいのかという苦悩である。もちろん、そこに普遍的な答えを用意することはできないはずだ。その上で本作は、とくに和とその母親(小林聡美)との関係を通して、そうした親子の関係に一つの答えを提出する。























