『ディスクロージャー・デイ』はなぜ賛否を呼んだのか? 宇宙的視点が描く世界融和の真価

誰もが知る、稀代のヒットメイカーにして、ハリウッドを代表する映画作家スティーヴン・スピルバーグ。『ジョーズ』(1975年)や『E.T.』(1982年)、『ジュラシック・パーク』(1993年)など、時代を代表する数々の世界的ヒット作を生み出し、娯楽映画の歴史そのものを塗り替えてきた巨匠である。
そんな彼が、これまでの娯楽作の一つの集大成として送り出す映画『ディスクロージャー・デイ』が公開された。ところが、作品を目にした観客の反応はさまざま。傑作だと称賛する声もあれば、期待はずれとの声も少なくない。困惑や戸惑いを含んだ反応も目立っている。
それもそのはずだ。本作『ディスクロージャー・デイ』は、スピルバーグの娯楽作という前提から想像されるものとは、どこか異なる手触りを持った、非常に奇妙な映画だったのである。そして議論百出し、各々が自分の思い入れのあるスピルバーグの意図を汲んで、これこそが作品の本質だと語っている。ここでは、そんな本作『ディスクロージャー・デイ』が、実際はどんな作品なのかということを、根拠付きで探っていきたい。
物語の中心となるのは、二人の人物だ。一人は、気象キャスターのマーガレット(エミリー・ブラント)。ある朝、彼女は奇妙な異変に見舞われ、TVの生放送中に突如として、この世のものとも思えない不可思議な音を喉から発する。それをきっかけに、彼女は謎の団体に追われることに。もう一人は、地球外生命体についての機密情報を知ったサイバーセキュリティの専門家ダニエル(ジョシュ・オコナー)。彼もまた、情報を持ち出したことで同じ団体から狙われているのだった。
まったく接点のなかった二人は、やがて出会い、それぞれの身に起きた出来事をきっかけに、人類の歴史を根底から覆しかねない秘密へと接近していく。宇宙に人類以外の生命体は存在するのか。もしその答えを知る者が地球上にいるのなら、なぜ真実は明かされないのか。人類の未来を左右する“開示”に向けて、二人は巨大な秘密の核心へと向かっていく。
エミリー・ブラントは、感情豊かで華やかな役柄を見事に体現。スマートフォンを踏みつける場面に代表される、楽しく動的な魅力を見せる。逆にジョシュ・オコナーは、ワークウェアと普段着を組み合わせた着こなしで、地味だが実直で誠実な技術者を味わい深く演じている。奇妙なガジェットを苦悶の表情で使うコリン・ファースの怪演も見どころだ。
また、ジョン・ウィリアムズの音楽、ヤヌス・カミンスキーの撮影、とくに最近充実した仕事をしているデヴィッド・コープの脚本という、スピルバーグ作品ではお馴染みのたしかなスタッフ陣も豪華だ。しかし、それぞれのキャリアや年齢を考えれば、こうした面々が揃う機会が今後あるのかというほど、じつは本作は、多くの観客の印象以上に貴重なのである。
コープが書き上げた脚本は、『未知との遭遇』(1977年)や『E.T.』(1982年)といった、地球外生命体とのコンタクトを描いてきたスピルバーグ作品の系譜に連なると同時に、社会派スリラーやアクション映画の要素を盛り込み、これまでのスピルバーグ作品のセルフパロディといってしまえるような内容となっている。
痺れるのは、冒頭を見逃したかと思うような、緊迫した交渉からスタートする、裏をかいた語り口の趣向。『ブリッジ・オブ・スパイ』(2015年)のような、スパイ映画風のやりとりで事態の大きさを予感させつつ、無駄なスケール感で盛り上げない渋さが、職人的である。こうした見どころが、映画好きの感性を撃ち抜くのではないか。
さらに、ダニエルが農場から逃亡しようとする際の流麗な長回しのカメラワークは、『マイノリティ・リポート』(2002年)や『タンタンの冒険 ユニコーン号の秘密』(2011年)を想起させ、崖に追い詰められるカーチェイスでは『激突!』(1971年)のニュアンスがある。『BFG:ビッグ・フレンドリー・ジャイアント』(2016年)のような、子どものベッドタイム・ストーリーをミステリーに繋げている部分もある。
こうした試みは、『フェイブルマンズ』(2022年)に続き、あたかも自らの原点や映画作家としての歩みを振り返るような姿勢がうかがえる点であり、スピルバーグ監督自身がキャリアの終焉を見定めていることを、否応なく感じさせるところだ。
だが一方で、本作が打ち出す物語設定は、公開時の社会状況との関係において、必ずしも幸運なタイミングに恵まれたとはいえない。2026年、トランプ政権はUFOや地球外生命体に関する政府資料の公開を進め、世間の関心を集めた。こうした動きに対しては、イランでの軍事行動や、ジェフリー・エプスタインをめぐる関連資料の公開要求など、政権が直面する政治的な問題から人々の目をそらすためではないか、という批判も上がっていたところなのだ。
実際、映画専門誌「ヴァラエティ」も、UFO関連資料の公開が本作の宣伝にとって追い風になるかと思いきや、かえって作品の受容を難しくした可能性を指摘している。(※1)かつて『未知との遭遇』が未知の存在との接触に新鮮な驚異をもたらしたのに対し、現代ではUFOに関する映像や情報、さらには陰謀論的な言説がインターネット上にあふれ、観客がすでに膨大な情報にさらされている。そうした状況が政治的な煙幕として利用されることがあるなかで、UFOにまつわる陰謀にフォーカスする内容が支持されにくかった面もありそうだ。
では、陰謀論めいた印象さえ漂わせる本作のストーリーは、スピルバーグにとって、どのような意味を持つものなのだろうか。本作については、スピルバーグが宇宙や人類の未来について真剣に考え抜いた末にたどり着いた作品だとする見方がある。一方で、地球外生命体という題材は、興味深い映像や映画的なスペクタクルを生み出すための手段にすぎないという解釈もある。あるいは、これまでのスピルバーグ作品と同様、あくまで娯楽映画として観客を楽しませることに徹したのだという意見も存在する。
いずれも、スピルバーグの映画作家としての側面を捉えた見方であり、理解できる部分はある。だがこれらが、全て成り立つわけではないだろう。それでは、はたしていったい何が正解に近いのだろうか。
























