『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』徹底考察 神話性と人間性の葛藤

 『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』が、3度の延期を経てついに公開を果たした。2011年に放送されたTVシリーズから始まり、前作の映画版『[新編] 叛逆の物語』から実に13年の月日が流れた本作だが、公開初週には観客動員数・興行収入ともに週末ランキング1位を獲得するなど、長いブランクをものともせず、多くの観客からの支持を集めている。

 これまでも刺激的かつ、ときに難解な物語を展開してきた『魔法少女まどか☆マギカ』。その最新作となる本作もまた、複雑に入り組んだ世界観と大胆な展開によって、観る者を容易には理解させてくれない作品となっている。そんな『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』とは、いったい何なのか。これまでのシリーズから何を引き継ぎ、何を加えたのか。さまざまな角度から、その実体を考えていきたい。

※本記事では、TVシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ [新編] 叛逆の物語』、そして『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ〈ワルプルギスの廻天〉』のストーリーの核心に触れています

 TVシリーズ『魔法少女まどか☆マギカ』の肝となったのは、ダークかつハードな展開を得意とする作家・シナリオライター・脚本家の虚淵玄が、「魔法少女」という題材を手がけるという企画そのものだった。蒼樹うめによるかわいらしいキャラクターデザインを前面に押し出し、いかにもほのぼのとした魔法少女の物語が始まるのだろうと思わせておいて、そこから視聴者を一気に阿鼻叫喚の世界へと連れていく。このギャップこそがTVシリーズの大きな魅力であり、同時に話題性を生み出した要因のひとつだった。

 そこには、他にもさまざまな面から既存の魔法少女アニメのジャンルを揺さぶるような、先鋭的な試みが盛り込まれていた。ゲーテの『ファウスト』からの要素が設定に盛り込まれていることもそうだが、なかでも象徴的なのが、2人組のアニメーション作家ユニット、劇団イヌカレーによる異質なビジュアル表現だ。通常のアニメーションとは制作手法そのものが異なる、コラージュを組み合わせた不穏なストップモーション・アニメーションが作中に挿入されることで、それまでのかわいらしい世界観が、不意に異様な空間へと変貌していく。

 なかでも度肝を抜かれたのが、主人公・鹿目まどかたち魔法少女がこれまで戦ってきた「魔女」の正体が明かされる、作品内の設定だった。ここでの魔女とは、魔法少女として契約を結んだ少女たちが、やがて絶望に至り変質した存在だったのである。さらに物語が表現したのは、それが特定の少女だけに起きた悲劇ではなく、人類の長い歴史のなかで、大勢の少女たちが呪われた存在として犠牲になり続けてきたという事実だった。

 そして、その少女たちを「魔法少女」としてスカウトしてきたキュゥべえもまた、彼女たちを救う存在ではなかった。少女たちの感情を利用し、そこから生じるエネルギーを得続けるという残酷なシステム。女性たちを犠牲にしながら繁栄してきた世界という構図は、フェミニズム論や、普遍的な搾取構造への問題提起に転用することが容易であることはもちろん、何よりも、アニメ作品という枠組みそのものへの“批評性”に満ちていたといえよう。

 まどかが最後に選択したのは、そんな少女たちを搾取し続ける構造そのものに終止符を打つことだった。過去、現在、そして未来にわたって生まれる魔法少女たちを救済するため、まどかは一人の少女であることを超え、「円環の理」へと変化していく。このシステムを塗り替える概念というのは、差別や偏見をあぶり出し、不公平な社会を変えようとする人々の心情や勇気を表現している面もあるだろう。いずれにせよ、このまどかの究極的な献身によってTVシリーズの物語は幕を閉じたのだった。

 そこには、ジャンルものの枠を飛び越え、宇宙的な広がりへと意識が拡散していくという意味で、SF的なスペクタクルが描かれたと見ることもできる。ただし、こうしたスケールの拡大が、『魔法少女まどか☆マギカ』によって初めて試みられたわけではない。『魔法のプリンセス ミンキーモモ』や、『美少女戦士セーラームーン』シリーズの終盤など、物語のスケールを大きく広げ、演出面でも壮大な展開を見せる「魔法少女」作品は、これまでも存在していた。そのことは、『まどか☆マギカ』の位置を正確に捉えるために留意しておきたいところだ。

 そうしたまどかの犠牲について、最も納得がいかなかったのが、暁美ほむらという魔法少女だった。彼女にとって最も大切な存在であるまどか一人が、なぜここまでの負担を引き受けなければならないのか。映画『叛逆の物語』で、ほむらは「円環の理」となったまどかの救済の力を利用し、そこからまどかの人格を取り出す。そして人々の記憶を奪ったうえで、自分たちの暮らす見滝原市を再構築し、まどかが一人の人間として生きられる、見せかけの世界を作り出したのだ。

 まどか自身の意志に反してでも、彼女を救い出したい……その願いを、ほむらは「愛」だと説明する。そして、そのためであれば、自らが「悪魔」と呼ばれるような存在になることさえ厭わない。TVシリーズでまどかが選んだ、理性的で献身的な結論に対して、ほむらはあくまで個人の気持ちから異議を唱えたのである。

 ある意味では、これはアンハッピーエンドと見ることのできる結末だろう。しかし、世界全体を救うために個人が犠牲になるというTVシリーズの結論を、たった一人を愛するという気持ちによって上書きしてしまうという構図は、世界への愛よりも、個人が個人を愛する気持ちが上回るという意味において、非常に“エモい”ものであったともいえる。

 同時に、この作品構造そのものが、押井守監督の『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』(1984年)に非常によく似ていることにも言及しておく必要があるだろう。ハリボテのように再構築された世界のなかで暮らしていた住民たちが違和感をおぼえ、自分たちの置かれた状況について謎を究明していく。こうした流れまで共通していることを踏まえると、『叛逆の物語』は単なる模倣というよりも、大規模なオマージュと見ることもできそうだ。

 しかし、真の参照元は、また別のところにあるのかもしれない。SF小説家のフィリップ・K・ディックは、晩年に「グノーシス主義」へ強く傾倒したことで知られている。そこで彼が考えたのが、「時間」というもの自体が、神が現れて善き人々を救済することを阻止するために、悪魔によって作られた幻なのではないか、という発想だった。つまり、われわれは時間という偽りの世界のなかで、長い夢を見せられているのだという。こう考えてみると、『叛逆の物語』の構図は驚くほどきれいに、ディックのSF的宗教観と重なってくる。

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