主演復帰の永野芽郁も続くか? 唐田えりかが纏う“透明な不透明さ”を考える
『極悪女王』で本格的カムバック
まず、唐田の復帰を印象づけた作品は『極悪女王』であった。1980年代の全日本女子プロレスを描いた本作において、中心となるのはゆりやんレトリィバァが演じたダンプ松本であるが、唐田が演じた長与千種も、きわめて重要な役どころとなっている。本作のために2年にわたるトレーニングを行い、プロレスラーとしての肉体をつくり上げるべく、10キロもの増量を行ったという唐田だが、彼女の169センチという高身長や長い四肢を最大限にいかした試合場面のアクションは、映画が虚構であるにもかかわらず、唐田の躍動する身体によって、見る者を否応なく巻き込んでいく。
たほう、『極悪女王』はリング上でのアクションや闘争だけでなく、リング外での彼女たちの友情にも重きを置いた物語となっている。エピソード1で、練習生時代の唐田とゆりやんが、夜の練習場のリング下で語らう場面。唐田=長与の「うちら強なるしかなかとばい」という言葉が発されるこの光景は、エピソード5で、髪切りデスマッチのような肥大化した拝金主義や、かつての仲間と憎み合いながらプロレスをせざるを得なくなった事態に嫌気がさした唐田とゆりやんが、ふたたびリング下で語らう場面へと反復される。リング上でのダイナミズムとは異なり、仰向けに寝そべり緊張から解き放たれた姿勢で唐田は、「うちらほんとに強くなれたとやろか」とこぼす。彼女のやわらかな声で発される一言には、それまで積み重ねてきたものへの矜持、それでもなお拭えない悔恨、そしてその両者のあいだで揺れる逡巡――これらが分離されないまま、一つの声に折り込まれている。
映画の終盤を締めくくる、敵・味方を超えたタッグ戦の場面が感動的なのは、唐田の「うちらほんとに強くなれたとやろか」という、それまでの時間を、迷いを含んだまま振り返るこの言葉があるからだ。唐田=長与とゆりやん=ダンプがタッグを組み、凶器による頭部攻撃で散々血塗られてきた唐田=長与の頭を、ゆりやん=ダンプの手が包み込むように触れるとき、私たちはそこに、彼女たちの過ごしてきた「時間の厚み」を見いだすのだ。
実力派としての信頼
唐田えりかのキャリアを見ていて興味ぶかいのは、主演を張らない作品においても、作品にその確かな存在感を刻みつけていることだ。山中瑶子監督の『ナミビアの砂漠』(2024年)で唐田が演じた遠山ひかりは、河合優実演じる主人公・カナの隣に暮らす謎めいた人物である。河合と唐田が焚き火を囲む場面は、現実と幻想の境界が地続きになったシーンであり、画面外で燃える火のわずかな明かりが、唐田の顔や腕にゆらめく陰影を落としている。「でも大丈夫だよ。1年後には忘れてるとは言わなくても、3年後にはほとんど思い出すこともなくなって、100年後には全員死んでるでしょ」という唐田=ひかりの声は、文字に起こせば身も蓋もない残酷なニュアンスをはらんでいるが、実際の映画では、むしろ相手をいたわり、慰撫するような響きも帯びている。出演時間はわずかであるにもかかわらず、唐田=ひかりが登場するこのシーンは、河合=カナと金子大地が演じる恋人ハヤシの対立関係がもたらす映画終盤の閉塞感に、束の間、ふっと風を吹き込んでいる。
テレビドラマ『君が死刑になる前に』(2026年)は、「教師連続殺害事件」の犯人として死刑が執行された女性・大隈汐梨をめぐるサスペンスであり、唐田はこの汐梨――指名手配された状態のまま無実を主張しつつ、過去に隠された真相が徐々に明かされていく人物――を演じている。序盤のエピソードでは、彼女の犯行が疑われるシーンが度々あるのだが、その度に強調されるのは唐田の表情だ。目にかかる重めの前髪と顔の輪郭に沿うようなヘアスタイルに加え、顔全体から生気が失われた表情を彼女は披露しており、その暗い印象からこの人物が犯人なのかという推測に観客は誘導される。しかし同時に、その表情には独特の重さと鈍さがともなっており、この人物が嘘をついているのか、本当のことを言っているのか、その判断の手がかりを観客から周到に奪い取っているとも言えて、唐田の俳優としての実力がいかんなく発揮されている。
のちに映画版も制作されたNHKドラマ『地震のあとで』の第1話「UFOが釧路に降りる」(2026年)にも、唐田は出演している(原作は村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』)。唐田が演じるシマオは、妻が失踪した小村徹(岡田将生)を釧路で案内する女性だが、2人はなぜかラブホテルに宿泊することになる。本作では唐田の衣装の推移そのものが一種の劇として機能している点も興味深いが、演技面で印象深いのは、彼女が作品序盤で発した「どこまで行っても自分からは逃げられないんじゃないかなぁ。影とおんなじ」という何気ない言葉が、作品終盤、唐田の顔全体を薄い影が覆い、岡田を驚愕させるというホラーめいた演出がなされる場面を、あらかじめ予告している点だ。このホラーめいた場面では、唐田の童顔がむしろ底の知れないキャラクター造形に見事に役立てられる。
唐田えりかのこれから
このように、唐田えりかが繰り返し演じてきたのは、複合的で揺らぎのある、謎を抱えたキャラクターたちであった。『寝ても覚めても』から、『ナミビアの砂漠』、『君が死刑になる前に』、『地震のあとで』に至るまで、唐田が多く演じてきたのは、すべてを見せているように見えながら、その内実を掴もうとするとするりと逃げてしまうような人物たちだ。透明であることと、不透明であることが、唐田においては矛盾なく同居している。
見るたびに違う模様を結びながら、その像そのものは決して一つの像として固定されない――唐田えりかとは、過去の出来事も含めて、そのような幾重にも折り重なる影を纏うことのできる稀有な存在として、いまも俳優としてのキャリアを更新しつづけている。ゴシップは瞬く間に消費され、忘れ去られていくだろうが、そうした仕組みを前提にしてもなお、唐田が作品に残してきた、これらの演技の数々は忘れ去られることなく残りつづけるはずだ。
参照
※1. https://natalie.mu/eiga/column/653389