『ヤニねこ』の“汚さ”に宿る退廃的時代精神 無作為な古典パロディと新海誠の系譜

(反)時代精神としての『ヤニねこ』

「何者にも縛られない自由な存在……ニャーは、そういうニャーでありたいニャ」(TVアニメ『ヤニねこ』第2話より)

 タバコを吸う、まれに隣人たちとのドタバタコメディが繰り広げられたと思いきや、再びタバコを吸う……『ヤニねこ』は、端的に言えばそれだけの作品だ。本作をめぐる評価は分散している。一方ではヤニねこの生活が崩壊しているように見えて実際のところはそれなりに小市民的でもあり、その中途半端さ、「サブカルチャーっぽさ」に対する違和感が聞こえてくる。他方で新海誠や水島努といった、全く作風の異なる著名なアニメーション監督たちによって絶賛される側面も有している。

 これらの評価は実のところ、本作をめぐる評価が最終的にある一点に収束し、そこで『ヤニねこ』という作品の実像を結んでいるようにも思われる。本作の評価は分散しているように見えて、一つのことを言っているにすぎないのだ。

 そこでここでは『ヤニねこ』がいかなる作品なのか、そしてテレビアニメーションのなかでどのように位置づけられるかについて、簡単ながら考えてみることにしよう。

頻出するパロディ

TVアニメ『ヤニねこ』ノンクレジットオープニング映像|忘れらんねえよ「なんもねえ」

 本作において、ヤニねこは雲のように、さまざまな存在に自由に変形してゆく。しかしそれは、彼女が根無し草のように自由であるという意味においてではない。確かにヤニねこをはじめとする獣人は、本作の世界ではどうも社会的地位が低く差別的な扱いを受けることもあり、また少なくともヤニねこの周囲は定職についていない場合が多く、その意味で労働をはじめとした社会的な活動に囚われない自由な存在であるようにも思える。しかし言うまでもなく、引用したセリフの直後で彼女はニコチン切れを起こし、バイトを紹介しろとヤクねこに迫るため、全く自由ではない。

 筆者が「自由である」と感じるのは、彼女がOP映像において、変幻自在に映画作品をパロディする点においてである。『トレインスポッティング』『気狂いピエロ』『レオン』『花様年華』『ファイト・クラブ』『ミッドサマー』……『ヤニねこ』のOPでは、古今東西の名作映画がパロディされる。ヤニねこは、作品を渡り歩くようにさまざまな存在に乗り移るのだ。こうした映画のパロディは、他方で我々にアニメ『チェンソーマン』のOPを思い起こさせもするだろう。

 だが同時に、本作OPのパロディは、映画に対してにしろ、『チェンソーマン』に対してにしろ、「タバコを吸っている」、あるいは「アニメである」ことを除いてはなんの脈絡もないことに注意しなければならない。『ヤニねこ』のパロディには統一性がなく、本来存在するであろう系譜を全く無視している(当然、それがそのまま悪であるとは思わない)。こうした本作のあり方を見ていると、筆者はふとヴァルター・ベンヤミンの議論を思い出す。写真や映画といった複製技術が普及することによって凋落するとされた一回性(=アウラ)のことを考えれば、むしろ本作の映画に対するパロディは映画を複製されるものという本来の位置に差し戻しているという意味で正しい姿勢であるともいえる。それはちょうど、第1話でヤニねこが「国宝の壺」をタバコで汚すこととも符合しているだろう。本作は、徹底的にあらゆる作品の一回性(=アウラ)を奪い続けているのだ。

 ところでベンヤミンは、「ミッキーマウス」についても議論をしている。彼によればミッキーマウス(あるいは彼をとりまく生活)とは、「〈文化〉も〈人間〉も、ありとあらゆるものを貪り食ってしまって、すっかり満腹したあげくうんざりしている」(※1)人間たちの見る夢なのだという。ミッキーマウスの生活にある「奇蹟」(=物理法則を無視したようなアニメーション)は「機械装置を用いることなく、準備なしの即興によって」、ミッキーマウスやその周囲の身体や家具、あるいは自然から生まれる(※2)。

 筆者が『ヤニねこ』を観て思い出すのは、じつはこちらのベンヤミンの議論である。無論彼が評価した初期のミッキーマウスと現在のヤニねことでは、おおよそ100年もの隔たりがある。けれどもそこには、同じ問題が横たわっているのではないか。現代における「経験の貧困」、すなわちショート動画をはじめとするファスト消費は、100年前と同じかそれ以上に、経験をすっかり飽和させ、我々を満腹にしてしまっているのではないか。思い返せば、ヤニねこは(稀にゲームなどはするが)奇妙なほど電子機器を使わず、かつ実に愉快にアニメートされてゆく。さまざまな映画を自由奔放に歩き回る彼女は、そうした時代の中でうんざりした我々が夢見るような、ある種の退廃的な生活の体現者でもあるのだ。そう考えるならばヤニねこは、現代におけるミッキーマウスの遠縁の子孫であると言えるのかもしれず、2020年代的な(反)時代精神を体現してもいる。

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