『ユージュアル・サスペクツ』映画文法をハックする極上の罠 観客を“共犯者”にする脚本術

 星の数ほどある「どんでん返し映画」の中でも、1995年公開の『ユージュアル・サスペクツ』は別格だ。ミステリーの定石を知り尽くし、目の肥えた現代の観客すらも心地よく罠にハメてしまう、サスペンス映画の金字塔である。

 物語の幕開けは、カリフォルニアの港で起きた麻薬密輸船の爆破事件。生き残った詐欺師キント(ケヴィン・スペイシー)は、関税局のクイヤン捜査官(チャズ・パルミンテリ)からネチネチと執拗な尋問を受けるハメになる。特赦をチラつかせて自白を迫る捜査官に対し、彼は6週間前に出会った悪党たち――キートン(ガブリエル・バーン)、マクマナス(スティーヴン・ボールドウィン)、フェンスター(ベニチオ・デル・トロ)、ホックニー(ケヴィン・ポラック)、そして裏で糸を引く伝説の犯罪王“カイザー・ソゼ”について語り始める。

 この映画を生み出したのは、当時まだ20代だったブライアン・シンガー(監督)とクリストファー・マッカリー(脚本)の幼なじみコンビ。わずか600万ドルの低予算ながら、その緻密なシナリオが世界を熱狂させ、アカデミー賞2部門(脚本賞・助演男優賞)をかっさらった。

 公開から30年以上が経過した本作は、現在劇場でリバイバル公開中。ネット上には、伏線や謎解きに関する考察記事が山のように溢れている。だからこそ本稿では、結末に至るまでの“完全ネタバレ”を大前提とした上で、あえて「映画の構造」という視点から、本作がなぜ今なお傑作として語り継がれるのかを見つめ直してみたい。

※以降、『ユージュアル・サスペクツ』に関する決定的なネタバレを含みますので、未見の方はご注意ください。

 本作の最大のトリックは、映画というメディアが根源的に抱える「回想シーンとして提示された映像は、揺るぎない客観的事実である」という観客の無意識のルール(映画文法)を逆手に取ったことだ。

 ミステリー小説の世界には古くから「信頼できない語り手」という手法が存在する。しかし、これを映像作品で成立させるのは至難の業。なぜなら、スクリーンに映し出された映像は活字以上に強烈な説得力を持ち、観客の目に疑いようのない真実として映り込んでしまうからだ。本作は、まさにこの映像に対する盲信を最大の武器として利用している。

 我々が2時間ハラハラしながら目撃してきた鮮やかな強奪劇や、悪党たちの友情は、客観的な出来事などではなく、1人の詐欺師が口から出まかせに語った嘘を視覚化したものに過ぎなかった。つまり観客は、カメラという神の視点を通じて事件の全貌を目撃しているつもりで、実は最初から最後まで「カイザー・ソゼの脳内で即興で生成された作り話」に釘付けにされていたのである。

 ここでもう一歩踏み込んでみたい。実は、脚本を手掛けたクリストファー・マッカリーは20代の無名時代、探偵事務所や法律事務所で事務員として働いていた過去を持つ。劇中に登場するクイヤンやフェンスターといったキャラクターの名前は彼のかつての職場の同僚から拝借したものであり、あのオチの要となる「イリノイ州スコーキーのカルテット社製」の掲示板も、彼が法律事務所で実際に眺めていたものだったという。

 この背景を知ると、映画の真の姿が浮かび上がってくる。取調室の椅子に座り、背後の掲示板のメモや手元のマグカップのロゴといった日常のディテールを拾い集め、即興で物語をでっち上げていくキントの姿。それはそっくりそのまま、退屈なオフィスの片隅で、限られたアイデアを繋ぎ合わせて物語を紡ぎ出した若き脚本家の自画像と重なる。つまり本作は、単なる犯人探しのミステリーではなく、「映画(虚構)とはいかにして無から作られ、いかにして人を騙すのか」というメカニズムそのものを描いた、知的なメタフィクションといえるのだ。

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