『超かぐや姫!』物語で観るか、キャラで観るか ミュージッククリップ的展開の現代性

独特の百合関係から見たキャラクター表現

 では逆に、本作のキャラクター表現の方はどうか。

 キャラクターから見た場合、『超かぐや姫!』の魅力というか本質は、やはりなんといっても、彩葉とかぐやの二者――さらに、ネタバレになるので控えるが、ヤチヨも加わった三者の「百合」的な関係性だろう(SNSで言われている日常系アニメのようなキャラの魅力も、これに重なる)。

 そもそも『超かぐや姫!』では男性の影が極端に希薄だ。登場キャラクターはほとんどが女性であり、数少ない男性にしても、彩葉の父親はすでに亡くなっており、彼女の高校の中年の担任教師はもちろん、帝アキラ(声:入野自由)も――これも詳細は伏せるが――恋愛の対象にはなりえず、駒沢雷(声:内田雄馬)や乃依(声:松岡禎丞)もモブとはいえないにせよ、存在感は相対的に希薄である。

 多くの魔法少女アニメや女性アイドルアニメが典型的だが、だいたい21世紀に入って、かつてとはまた違ったかたちで、(男性を排除した)「女性同士の親密な(ホモソーシャルな)絆や連帯」を描く作品がアニメでも目立つようになった。とりわけ米林宏昌監督『思い出のマーニー』(2014年)、山田尚子監督『リズと青い鳥』(2018年)、足立慎吾監督『リコリス・リコイル』(2022年)、押山清高監督『ルックバック』(2024年)……など、「ボーイ・ミーツ・ガール」ではない、対照的でありながらもよく似た2人の少女のシスターフッドを描く良作が登場し、また批評の側からも、そうした「女性同士の絆」を、異性愛規範にとらわれずに多様に読み解くクィア・リーディングの可能性が開かれてきた。

 この観点で見ると、『超かぐや姫!』のエポックは、先ほども述べた「ボカロ文化や配信者文化のレガシーを初めて本格的にフィーチャーした音楽アニメ」という側面以外に、「ボカロ文化や配信者文化とも絡めながら、百合的な関係性に投射して今のライバーやファンたちの実存やアイデンティティを巧みに描いた」ところにもあるといえるだろう。

 例えば、彩葉とかぐやの百合関係(ホモソーシャル関係)が独特なのは、一面では互いが互いを補うような親密な対称性(鏡像性)を持つと同時に、他方では徹底して「非対称」でもあることである。つまり、2人は打ち解けた気の置けない親友同士(シスターフッド)だが、同時に彩葉はかぐやの育ての親――擬似的な「母娘」でもある。つまり、『超かぐや姫!』は、溝口健二監督の『お遊さま』(1951年)のような「擬似母娘メロドラマ」でもあるのだ(彩葉がかぐやと布団で添い寝するシーンは、こうした擬似的な母娘関係の暗喩であると同時にクィアな読みの可能性も惹起する)。

 しかも、彩葉にとって、かぐやは自分と同じ世界の人間ではなく、しかもツクヨミのライバーとして成功してからはバーチャルなデジタル世界の存在としての立ち位置も大きくなる。どちらにしても、彩葉にとってかぐやは、自分とは違う「他者」としての確固とした存在感が希薄なのだ。その希薄さは、もちろんメタバース世界の存在であるヤチヨ、別居している実の母親との関係についても当てはまる。

 SNSで一部の視聴者が、本作のキャラクター描写の希薄さや展開の唐突さを指摘していたが、その理由は本作のこうした側面にも由来しているだろう。実の母にせよ、かぐやにせよ、彩葉は、実感のある「他者」として向き合えることを欲しているが、どこか手触りがない。かぐやには音楽を通じて、かつての母との思い出が投影され、しかも彼女はある意味でまだ自分の「子ども」のような存在だ。まるで彼女を自分が反射する「鏡」のように感じてしまう――それが、彩葉が当初陥っていた状態だろう。そうした微妙な百合関係(10代の多感な少女の心情)を、脚本の夏生はうまく表現している。

「ライバー的実存」を描くメタアニメ

 興味深いのは、このような彩葉のキャラクターが、21世紀の私たちの「実存」の本質ともどこか対応するように思えることだ。

 例えば、文芸批評家の福嶋亮大は最近、「21世紀の私は「私というメディア」を運営するキュレーターである」と定義し、次のように書いている。

 ボードリヤールが予告した通り、われわれはシミュレーションの全面化した時代を生きている――それはもはや自明なので、わざわざ口にされなくなっただけだ。[…]情報社会の富の基盤になったのは、まさにこのような《鏡のゲーム》のエンドレスな続行であり、そのなかで人間の行動や知性のシミュレーションは加速してゆく。
[…]動物が自然環境とのコミュニケーションのなかで生存するように、インターネットの「私」も情報環境(落合陽一の言う「デジタル・ネイチャー」)とのコミュニケーションのなかで自己像を輪郭づけるように誘導される。[…]
 こうして、21世紀の中産階級は国家的なアイデンティティの確認よりも、個人的なライフスタイルを核とする「主観性の文化」(ゲオルグ・ジンメル)に傾倒してゆく。この脱標準化した「私」は自らを鋳型にはめこむのではなく、情報環境とのフィードバックのなかで、人生をたえず「自作自演」するように促される。自分で人生の脚本を書いては、それを修正し、増補し、ケアしながら自己の独自性のキュレーションを続ける「メディア化した私」――このような自己は、再起的なフィードバックを作動原理とするサイバネティクス機械に限りなく近い。(※3)

 21世紀の新たな「私」は、具体的な手触りを欠いた情報環境との絶え間ないフィードバック(《鏡のゲーム》)のプロセスを通じて、オリジナルな「自分」を自作自演=キュレーションしていく。福嶋は言及していないが、明らかなように、ここでいわれていることは、まさに今日のYouTuberやVTuberのような配信者(ライバー)の持つ特異なアイデンティティの本質そのものだろう。実際、VTuberにも造詣の深い哲学者の山野弘樹は、VTuberや実況者が情報空間の他者(環境)とのフィードバックによって派生する彼ら各々の独自のアイデンティティを「倫理的アイデンティティ」と名づけている(『VTuberの哲学』(春秋社))。この概念も上の福嶋の記述をなぞっている。


 
 例えば、かぐやが彩葉とともに初めてツクヨミに足を踏み入れた時、2人の前にウミウシのFUSHI(声:釘宮理恵)が現れて、このように語りかける。「ツクヨミではみんなが表現者。君も何かをして人の心を動かしたら、運営から”ふじゅ〜”がもらえるんだ」、「ふじゅ〜を使って、君の好きなクリエイターを応援しに行こう!」。ツクヨミでは誰もが、望めば(成功するかは別にして)ライバーになれる。ここには、まさに初音ミクが登場する前年に流行語となった「総表現社会」(梅田望夫『ウェブ進化論』(ちくま新書))の理念が反映されている。そして、それは互いに鏡のように自分を映しながらキュレーションし合う「メディア化した私たち」の姿なのだ。そして、『超かぐや姫!』の場合は、その「メディア化した私」を、独特の百合関係に重ね合わせてジェンダー的に表現している点に妙味がある。

 しかも、したがって、彩葉とかぐや、彩葉とヤチヨの関係は、そのまま『超かぐや姫!』を観る現実のプロデューサーとライバー、ファン(推す側)とライバー(推される側)の関係性にも転化するだろう(そういえば、アイドルアニメがそうであるように、プロデューサーとライバー=アイドルの関係も擬似的な親子のように思える)。その意味で、『超かぐや姫!』は、ボカロアニメ、百合アニメであるとともに、よくできた「メタアイドルアニメ」として多層的にできあがっている。

 2020年代アニメのさまざまなジャンルの定型を活かしながら、さらにユニークな形でアップデートした画期的な作品になった。

参照
※1. https://www.animatetimes.com/news/details.php?id=1768959910
※2. 同上
※3. 『メディアが人間である』(blueprint)、98〜99、215〜219ページ

■公開・配信情報
『超かぐや姫!』
公開中
Netflixにて世界独占配信中
キャスト:夏吉ゆうこ(かぐや役)、永瀬アンナ(酒寄彩葉役)、早見沙織(月見ヤチヨ役)
劇中歌楽曲提供:ryo(supercell)、yuigot、Aqu3ra、HoneyWorks、40mP/kz(livetune)
監督:山下清悟
キャラクターデザイン:へちま、永江彰浩
製作:コロリド・ツインエンジンパートナーズ
アニメーション制作:スタジオコロリド、スタジオクロマト
©コロリド・ツインエンジンパートナーズ
公式サイト:https://www.cho-kaguyahime.com
公式X(旧Twitter):https://x.com/Cho_KaguyaHime
公式YouTube:https://www.youtube.com/@Cho-KaguyaHime-PR
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