『ほどなく、お別れです』の変則的構成が生む特異性 『おくりびと』『東京物語』と比較考察
『セカコイ』こと『今夜、世界からこの恋が消えても』(2022年)をはじめ、多くの恋愛映画を撮ってきたヒットメイカー、三木孝浩監督。今回の『ほどなく、お別れです』で描くのは、「葬儀」であり、大事な人との別れである。死別や難病は、三木監督自身も恋愛映画のなかで描いてきた要素ではあるが、浜辺美波、目黒蓮という人気俳優を出演させつつも、葬儀そのものにフォーカスするのはチャレンジングだといえる。
しかし筆者が鑑賞した劇場では、詰めかけた観客の多くが、上映の間ぐすぐすと泣いていて、これは製作側の目論見が勝利したのだと、すぐに確信した。予想通り、興行上でも大ヒットを達成している。そんな成功作といえる本作『ほどなく、お別れです』について、ここではあえて違和感を含めた見解とともに、その特異性や見どころを語っていきたいと思う。
物語は、浜辺美波演じる清水美空の視点で進んでいく。就職活動がうまくいかず悩んでいた美空は、“亡くなった人の姿が見え、声を聴くことができる”秘密の能力を持っている。目黒蓮が演じる、毒舌だが誰よりも故人と遺族に寄り添う葬祭プランナー・漆原礼二に才能を買われた美空は、彼の勤める葬儀会社で働き始める。
美空は仕事を続けるなかで、亡くなった人々だけではなく、幼い娘を失った夫婦や、交通事故で母親を失った兄妹など、さまざまな遺族の喪失に直面。残された遺族と故人の想いを尊重した葬儀を目指す「葬祭プランナー」になるべく奮闘していく。
死別の悲しみを描くエピソードが数珠繋ぎのように配置されていることで、涙もろい観客は最初の10数分頃から最後まで、“涙の切れ目がない”状況に陥るのである。まさに、頭から尻尾まで、“涙”というあんこが詰まった鯛焼きを食べているようなものだ。これには素直に圧倒されざるを得ない。
一方で、クライマックスにピークを設定する娯楽映画の脚本のセオリーからは外れている。多くの感動作では、さまざまな感情を描いたのちに、それらを集約させるかたちで感動を持ってくる。しかし、本作を貫く倫理観のなかでは、それぞれの葬儀の意味合いに大も小もつけられないため、全てを並列的に、感動的に並べなくてはならないのだ。こうした構成は、本来はドラマシリーズに合っていたのかもしれない。とはいえ、こうした変則的な構成があってこそ、涙の切れ目がない特異なタイトルが生まれたということになるだろう。
本作の舞台は、東京都墨田区周辺。現在の代表的なランドマークとなっている「東京スカイツリー」が何度も画面に映るが、これが本来の用途である、電波塔や観光名所としてではなく、あたかも日本での死者を追悼する、巨大な慰霊塔でもあるかのように映し出される。そして、それが置かれる東京の街全体は、ビルという墓石が立ち並ぶ壮大な墓地であるようだ。
そんな、ある意味で不気味な見立てを認めるかのように、本作では死者と生者との境目が曖昧にされていて、“いつかは皆同じところへ行く”という共通項によって、これまで存在した人類、いま生きている人類すべてを連帯させている。配慮が行き届いているのは、“死の世界”の具体的な描写をしないことで、さまざまな宗教観にも対応している点だ。
先日、本作の劇中映像を使用した葬儀会社のコラボCMが放送、配信されたのを目にしたときはさすがに驚いたのだが、それぞれの宗教に対応しながら、あたたかな日差しとともに清潔で美しく映し出される本作の“感動”の場面は、確かに葬儀場の打ち出すクリーンなイメージそのものでもある。
とはいえ、同じく死者を送り出すといった題材で、広く評価を得た滝田洋二郎監督の『おくりびと』(2008年)もまた、葬儀会社とタイアップをしているようなので、葬祭でも商魂のたくましさを感じられるのが、いまの社会である。人の営みの全てが商圏として扱われるという意味では、やはり日本社会そのものが巨大な墓地であるという情景は、あながち見当はずれではないのだと感じさせる。
『おくりびと』では、主演の本木雅弘が「納棺師」として、武道や伝統芸能にも通じるような、美しい所作でのプロフェッショナルな技術を披露していた。本作ではそれと競い合うかのように、見事に目黒蓮が遺体に敬意を払いながら必要な措置を施していく演技の様子が見せ場として置かれている。
死を“穢(けが)れ”として扱い忌避する人々の偏見に対峙する意味合いのあった『おくりびと』は、多くの観客の目に触れることで、葬祭の仕事へのイメージをアップさせることになった。本作でも、そうした仕事への見方を示唆するシーンがあったが、すでに理屈としては、そうした仕事への偏見を克服した社会状況が前提となっているように見える。そういう意味で本作は、『おくりびと』に対抗するというよりは、ポスト『おくりびと』として撮られているのだろう。