実写版『秒速5センチメートル』における“再構築”を読む 新海誠の“詩学”を奥山由之が更新

 新海誠は、テキストの人である。映像が物語を牽引するのではなく、モノローグが映像を導く。映像は時間的な連続ではなく、記憶の断片を並置するスライドショーのように配置され、語りがそれらに意味の接続を与える。少なくとも初期作品はそのような手つきで作られていたし、その最たるものが『秒速5センチメートル』(2007年)といっていいだろう。

「秒速5センチメートル」予告編 HD版 (5 Centimeters per Second)

 桜、列車、空、街灯。いずれのカットも因果関係を持たず、時間軸ではなく感情軸で繋がっていく。だからこそ我々観客は、モノローグの韻律に合わせて映像を読む。「映像を観る」映画ではなく、「言葉を聴きながら記憶を呼び起こす」映画なのだ。この作品が熱狂的なファンを生んだのも納得。映像のダイナミズムではなく、鑑賞者のセンチメンタルな記憶そのものを刺激するのだから。そしてバツグンのタイミングで流れる山崎まさよしの「One more time, One more chance」が、記憶の断片をひとつに縫い合わせていく。

 『秒速5センチメートル』は、「ドラマティックな事件をあえて描かない」という意味でもチャレンジングな作品だった。「何も起きない日常」に潜む心の変化を描き、アニメーションで「現実そのもの」を描く可能性を探る。『ほしのこえ』(2002年)や『雲のむこう、約束の場所』(2004年)が、SF的スケールで到達し得ない距離を描いたのに対し、本作ではその距離を内面へと反転させ、非日常の喪失によって日常の深度を掘り下げる方向へと舵を切った。

 「何も起きない日常」を断片として積み重ね、語りがその隙間を満たしていく。それが『秒速5センチメートル』の構造だ。だが、抽象の詩学を現実の映像で置き換えるとなると、とてつもない困難が生じてしまう。当たり前の話だが、実写という現実の皮膚をまとった瞬間、アニメが持っていた夢のような曖昧さや、光に滲む詩の手触りはかき消えてしまう。だからこの映画が松村北斗主演で実写化されると聞いたときは、心底驚いた。あまりにも無謀すぎるプロジェクトじゃないか!

 同時に、監督が奥山由之だと知って、深く腑に落ちた。写真家としてキャリアを築き、ポカリスエットのCMや米津玄師・サカナクションのMVなど、光と感情の微妙な揺らぎを映像化してきた彼なら、確かにこのプロジェクトにはうってつけかもしれない。彼が手掛けた『アット・ザ・ベンチ』(2024年)は、二子玉川のベンチを舞台にしたオムニバス映画で、その静謐さの中に凄まじい映像的感受性が潜んでいた。しかもキャストは広瀬すず、仲野太賀、今田美桜、森七菜、草彅剛、吉岡里帆、神木隆之介と、信じがたいほど豪華である(自主制作なのに)。

 そして、ついに公開された実写版『秒速5センチメートル』。新海誠の映像的世界観を実写にトレースしたという意味では、おそらく百点満点の作品だろう。空一面を覆う積雲、光のレンズフレア、高彩度・低コントラストのトーン……画面の端々に、新海的なるものが息づいている。そして、当然といえば当然なのだが、もはやこの実写版は記憶の映画ではない。本作は、より物理的で触覚的な映画へと移行している。

 そして、アニメ版が強烈に有していた「大人になることへの強烈な抵抗」もまた、明らかに減衰している。

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