『べらぼう』は“作品”が永遠の命をもたらすことを教えてくれる あまりに早すぎるきよの死

 やはり梅毒だった。歌麿(染谷将太)の妻・きよ(藤間爽子)の体にじわじわと広がった発疹に、NHK大河ドラマ『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』視聴者たちの間でも嫌な予感が広がっていたものの、こんなにもあっけなく逝ってしまうとは……。

 きよとの出会いは、歌麿を絵師としても、人としても大きく変えた。いつ死んでもいいといった具合だった歌麿が、「ちゃんとしたい」と生きることに前向きになれたこともそう。そして、人知れず命を全うする生物、そして名もなき人々の小さな営みの中にある“ありのままの美しさ”を描くこともできるようになった。細部にまで及ぶ繊細な観察眼に、命を愛しむ感情が重なったのは、紛れもなくきよを愛し、そして愛されるという生きる悦びを知ったからに他ならない。

 しかし梅毒の進行とともに、きよは少しずつ正気を失っていく。それでも歌麿がきよの姿を描こうと見つめるその瞬間だけは穏やかでいられたのは、自分の存在が彼の瞳に映ることで「生きている」実感を得られたからではないだろうか。そして、その瞳に映る自分を見つめ返すことで、歌麿もまた自身の存在価値を確かめていたのかもしれない。

 2人には自分のことを愛して、「大丈夫」と言ってくれる人がいなかった。多くの人が行き交う町に住んでいても“誰の目にも映っていない”という悲しみを抱いていたのではないか。そんな2人がようやく手にした愛し、愛されるという幸せ。しかし、その愛しい時間はあまりに儚く過ぎ去ろうとしていた。そんな残酷な現実を歌麿が受け入れられるはずもない。

 肉体が朽ちていくきよのそばから離れようとせず、「まだ生きている。まだそこにいる」と言って聞かない。壊れかかった歌麿に、蔦重(横浜流星)が言い聞かせる。「生き残って命を描くんだ。それが俺達の天命なんだよ」と。いっそこのまま壊れてしまったほうが楽だったかもしれない。だが、絵師としての性が歌麿を正気に戻させる。

 これまでは手に入れたくても手に入らない悲しみに耐え続けてきた。だから、ようやく手に入ったものを奪われる痛みが、これほど辛く苦しいものであることを初めて知ったのだ。歌麿の悲痛な叫びを体ごと受け止める蔦重。やりきれない思いをそのままぶつけて暴れる歌麿を抱きしめながら、蔦重もまた自分の中にある受け入れがたい現実を受け入れようとしているかのようだった。

 第38回「地本問屋仲間事之始」。そのタイトルこそ蔦重がこれまで縁を繋いできた仲間たちと、寛政の改革を断行する松平定信(井上祐貴)へと抗う熱い展開を示しているものの、そこに漂う空気はどこかスカッとしない。それは、彼が「時代の革命児」という勢いを失い、紛れもなく「時代にしがみつく側」になっていたからだ。

 あれだけ本屋仲間から追い出される側でいた蔦重が、新勢力である大和田安兵衛(川西賢志郎)を煙たがる不粋さ。もちろん政演(古川雄大)と組んで、定信の目指す社会を擬人化した善と悪の魂キャラを使って面白く広める『心学早染草』を出版したことが、気に食わないのはわかるのだが、新たな風雲児の「そう来たか!」を素直に認められないことが、蔦重が老いてしまったようで悲しいのだ。

 人は何かを得た瞬間、いつか必ず失うという運命が決まっている。「面白ければいいじゃないか」という柔軟さもある意味で若さゆえの勢いがあってこそ。手に入れたものが大きくなるほど、あるものを壊す側の「攻め」より、築いたものを奪われまいと「守り」に入らざるを得なくなる。

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