劇場版『チェンソーマン レゼ篇』で輝くエロスとバイオレンス 独自の魅力の本質を紐解く

 特筆すべきは牛尾憲輔の作曲だ。花火をバックにした幸福な瞬間から惨劇が巻き起こる悪夢のようなストーリー展開に従い、音楽もロマンティックなものから不穏で衝撃的なものに変転する。そこで、幸福な瞬間を彩っていた旋律の一部が、まだ“火薬のように”燻ってパチパチとその場で弾けているように表現されるのだ。このような、先ほどまでの花火の記憶とボムの驚異とが同時にあるという詩的アプローチは、非常にユニークかつハイレベルな試みだといえるだろう。

 牛尾憲輔は、手がけた『きみの色』(2024年)でも、登場人物が創作する曲のフレーズを、まだ完成前の形で劇伴のなかに仕込んでおくという芸当を見せている。ストーリーと音楽が、時間の中で絡み合うという、作品世界やストーリーを熟知しているからこそできる、立体的な仕掛けだ。旋律をキャラクターの行為や物語の前後関係に結びつけるという手法の進化が、本作で体験できるのである。

 さて、そんな後半のアクションに圧倒される本作だが、もともと「レゼ編」は、原作漫画の時点からファンの間で「映画で観たい」と言われていた箇所であった。それは、映画好きな原作者による「実写映画風」シーンの存在や、ちょうどいい尺の関係にもあるだろう。その期待に応えたのが本作だといえるのだ。

 とはいえ本作は、レゼがデンジを誘惑していく前半部も、アクションシーンが中心となる後半部も、ストーリー展開自体が非常にシンプルだといえる。とくにハリウッドの娯楽映画の水準で考えれば、脚本のツイスト(ひねり)などの印象的な展開が、あまりに少なすぎる。これは、映画作品に見慣れている観客ほど同意できる点であろう。

 実際には本作は、映画的な脚本というよりも、よりヴィジュアル面に依存した、むしろアニメーション作品に適した構成になっていて、実際、それを十二分に活かした内容になっているのである。だからこれが、劇中でデンジとマキマが観ていたような“実写映画的”な世界かというと、かなり違うものだ。つまり本作は映画に接近するような構えを見せたからこそ、むしろ“非”実写映画的な部分が際立っていると感じさせられる。同時に、だからこそ、ファンや多くの観客が楽しみやすいところに着地できているといえよう。

 そして、今回主題となっている、デンジとレゼとの関係も興味深い。もともとデンジという主人公は、少年漫画という枠をはみ出していく、個性的な存在である。彼が戦う動機は、正義感や、強くなりたいという思いではなく、「腹いっぱい食いたい」、「女の子とイチャイチャしたい」という、動物的な衝動そのものだ。

 とくに公安に“飼われる”以前の彼は、莫大な借金だけがあり、自分の身体を犠牲にしながら日々をなんとか生きていくしかない状態。この世の楽しみや“普通の幸福”にアクセスすることが全くできない存在だった。そんなデンジというキャラクターは、ひと昔前の標準的な暮らしをすることすら難しくなった、いまの日本において、大人になることや老後に希望を持てなくなってきている、困難な若者の心理を代表するところがある。その意味において『チェンソーマン』は、『鬼滅の刃』に重なるところもある。

 食欲と性欲に突き動かされているデンジは、そのことすらも利用される。かつて軍事政権下にあった韓国では、国民の関心を政治に向けさせないようにするため、Screen、Sport、Sexに関心を持たせる愚民政策の一種である「3S政策」を仕掛けたが、まさにデンジは“操作される大衆”そのものであり、社会や政治問題への関心が薄く、目の前のことや欲望にしか興味を持ちにくい、現在の日本に暮らす若者像の一つの典型でもある。

 レゼは恋愛感情ではなく、ある目的のためにデンジに接近するのだが、彼女はデンジのそういった“普通に生きてこれなかった”、そしてこれからも“普通に生きていけない”境遇について、同情の念を見せている。それは、彼女自身にも重なる部分があるからだ。つまり本作で出会う2人は、まさに似た者同士であり、現在の社会が生み出す不幸と諦念の象徴であるといえる。だからこそ、そこで生まれる暴虐や破壊を通して、“優しくなかった世界”そのものを壊そうとすることへのカタルシスがあるのだ。これこそが、本作や『チェンソーマン』というシリーズのパンク的な価値であり、快感であろう。

 そこでとくに新しいと思えるのは、そんな欲望に忠実なデンジであるのに、彼の性欲の対象となる女性に対して、順を追ってコミュニケーションをとろうとするようになるという点。デンジはかつて、女性の胸を揉みたいという夢を、パワーの協力のもと果たすことができた。しかし、彼は「こんなものか……」と、落ち込むことになる。そこでマキマが落ち込むデンジに、心のつながりが必要だと教えるエピソードがあったはずだ。デンジは、女性との関係構築と、双方向的な感情の価値を学ぶのである。

 女性キャラクターの描かれ方も、非常に興味深い。マキマやレゼなどの女性たちは、ヒロインの役割を果たすために存在するというより、それぞれの“欲望”や“目的”を持って、それぞれ主体的に動いている。だからこそ、欲望に忠実すぎるデンジは、知性で上回る彼女たちに“使われる”立場になる。ここが、ともすれば少年漫画が陥ってしまうことのある“都合のいい女の子”の描き方と大きく異なる部分だ。仮に、それが悪意に根ざしたものだとしても。

 つまり『チェンソーマン』の物語を一方向から見れば、性欲と食欲に動かされる衝動の塊としての主人公が、現実の女性の主体性にぶつかることで少しずつ成長を遂げていくものになっている。だからこそ、本作の“エロシーン”と呼ばれるような箇所が、単なるサービスカットではなく、物語に必然的なものとして立ち上がってくる。こういった、“欲望と翻弄”の構図を通した成長の物語は、従来の少年漫画が提供してきた成長の過程と比べると、だいぶ現実的で手に届くものだと思えるし、読者にとって解放的な印象すら与えるのではないか。

 一貫してデンジは騙され続け、社会の搾取システムのなかで翻弄され、女性に利用され続ける。いくらチェンソーを振り回し、悪魔の屍山血河を作ろうとも、そして読者や観客たちに一瞬の解放感を与えたとしても、そういった構図への劇的な解決は与えられない。観客自身もそうだろう。少なくともいまは、抑圧のなかで、マシな一日を送れるようになるため、昨日より少しだけ前へと進んでいくしかない。エクストリームに、めちゃくちゃに見えながらも、そうした精神の物語が根底にあるからこそ、この作品ではエロスとバイオレンスが輝くのである。

■公開情報
劇場版『チェンソーマン レゼ篇』
全国公開中
キャスト:戸谷菊之介(デンジ)、井澤詩織(ポチタ)、楠木ともり(マキマ)、坂田将吾(マキマ)、ファイルーズあい(パワー)、高橋花林(東山コベニ)、花江夏樹(ビーム)、内田夕夜(暴力の魔人)、内田真礼(天使の悪魔)、高橋英則(副隊長)、赤羽根健治(野茂)、乃村健次(謎の男)、喜多村英梨(台風の悪魔)、上田麗奈(レゼ)
原作:藤本タツキ『チェンソーマン』(集英社『少年ジャンプ+』連載)
監督:𠮷原達矢
脚本:瀬古浩司
キャラクターデザイン:杉山和隆
副監督:中園真登
サブキャラクターデザイン:山﨑爽太、駿
メインアニメーター:庄一
アクションディレクター:重次創太
悪魔デザイン:松浦力、押山清高
衣装デザイン:山本彩
美術監督:竹田悠介
色彩設計:中野尚美
カラースクリプト:りく
3DCG ディレクター:渡辺大貴、玉井真広
撮影監督:伊藤哲平
編集:吉武将人
音楽:牛尾憲輔
配給:東宝
制作:MAPPA
主題歌:米津玄師「IRIS OUT」(Sony Music Labels Inc.)
エンディングテーマ:米津玄師、宇多田ヒカル「JANE DOE」(Sony Music Labels Inc.)
©2025 MAPPA/チェンソーマンプロジェクト ©藤本タツキ/集英社
公式サイト:https://chainsawman.dog/
公式X(旧Twitter):@CHAINSAWMAN_PR

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