『チェンソーマン』が解体したジャンプ的価値観 『レゼ編』が描くロマンスと破壊の二重奏
藤本タツキ原作のアニメ『チェンソーマン』は、とかくその圧倒的な映像表現だったり、OP映像の『パルプ・フィクション』や『悪魔のいけにえ』などの映画的オマージュが語られがちだ。
だがそれよりも重要なのは、この作品が写実的なカメラワークによって『少年ジャンプ』的価値観を徹底的に解体し、恋愛の気まずい現実をまざまざと見せつけることだ……と、筆者は勝手に思っている。従来、『ジャンプ』のアクション系漫画における恋愛は、主人公の成長物語を彩る副線でしかなかった。例えば『僕のヒーローアカデミア』では、デクとお茶子の淡い関係が物語を彩るが、それはあくまで青春のほのめかしにすぎない。
『鬼滅の刃』においても、炭治郎とカナヲの関係は清廉なロマンスとして描かれ、『呪術廻戦』では、釘崎や真希といった女性キャラが恋愛対象ではなく戦士として前景化されるため、恋愛要素は徹底して抑制されている。あくまで物語を牽引するのは、友情・努力・勝利の三大原則なのだ。
ところが『チェンソーマン』の場合、恋愛ーーというよりも、むき出しの性の欲望と言ったほうが正確かもしれないーーが、物語の強力な推進力となっている。主人公デンジの欲望は、「胸を揉みたい」というあまりにも露骨なもの。そして彼の憧れの対象であるマキマは、その欲望を巧みに操り、彼を何度も死地へ赴かせる。
母性的な優しさと圧倒的な支配力を併せ持つマキマは、恋愛を権力装置として用いる(これは、『新世紀エヴァンゲリオン』における葛城ミサトの立ち位置にも似ている)。マキマにとってキスやデートとは、デンジに対する愛情表現ではなく、首輪の鎖に等しい行為なのだ。
一方、血の魔人パワーは“エロティックな期待の解体”として登場する。デンジは憧れを抱いていた「胸を揉む」行為を実現させるが、それはあまりにも即物的かつ空虚で、彼の幻想はあっさりと瓦解してしまう。ここで描かれているのは、『らんま1/2』のようなラブコメ的お色気ギャグではない。むしろ、性への憧れと現実の落差を突きつけることで、ジャンプ的価値観を根底から揺るがしている。
さらにデンジの先輩・姫野は、「悪魔を倒したらキスしてあげる」という発言をして、恋愛を取引の条件として提示する。もはやキスは成果報酬のインセンティブであり、資本主義的労働に対する報酬なのだ。MAPPAのリアル志向演出が加わることで、この構図は漫画よりもさらに生々しい現実味を帯びる。
デンジと姫野のキスシーンの生々しい音響は、ロマン化された恋愛ではなく、欲望と支配と報酬が絡み合う気まずさを浮き彫りにする。アニメ版『チェンソーマン』における恋愛描写は、もはやロマンスではない。そこにあるのは、性への憧れとその空虚さ、性愛を利用する支配、取引としての愛。恋愛の欺瞞を暴き出し、人間の欲望という生々しい現実をスクリーンに叩きつける。
その延長線上に現れたのが、劇場版『チェンソーマン レゼ篇』だ。本作は、アニメシリーズが徹底して暴き立てた「恋愛=欲望・支配・取引」という構図から、一転してロマンスの叙情へと舵を切る。