高橋一生の露伴になぜ魅了され続けるのか 『岸辺露伴は動かない 懺悔室』が問う絶望と幸せ
なぜ私たちは、高橋一生演じる岸辺露伴の物語に魅了され続けるのか。その理由は数多あるが、何より彼が、「闇」に惹かれる人物だからではないだろうか。
前作『岸辺露伴 ルーヴルへ行く』においても彼は「黒」に魅入られた。その「黒」は淡い初恋の記憶であり、その果ては人々の後悔に、さらには彼自身の先祖の罪にまで続いていた。ヴェネチアに着いてもなお露伴は、美しい名所の数々ではなく、あちこちに落ちている「影」を探して歩く(明るい方を探して歩くのは相棒である飯豊まりえ演じる担当編集・泉京香の役割だ)。
冒頭彼が見た「死の影」とは、かつてヴェネチアを襲ったペストの痕跡であり、その後彼が巻き込まれていくのは、謎の男・田宮(井浦新)が抱える、深い心の闇だった。映画の観客もまた、映画館という暗闇に身を沈め、非日常を見つめにいく。スクリーンに映し出される上質な影は、鏡にもなって、映画を観ている観客自身をも映すのである。だから、映画と高橋一生演じる岸辺露伴は、非常に相性がいい。
映画『岸辺露伴は動かない 懺悔室』の原作は、荒木飛呂彦の『ジョジョの奇妙な冒険』シリーズのスピンオフ作品である『岸辺露伴は動かない』(集英社ジャンプコミックス)。「懺悔室」は『岸辺露伴は動かない』シリーズの最初の作品にあたる。脚本は前作同様、小林靖子が手掛け、渡辺一貴が監督を務めた。前半部分は原作そのまま、ヴェネチアの教会で、岸辺露伴が偶然出会った1人の男から、恐ろしい懺悔を聞く話。後半部分は露伴自身がその男・田宮(井浦新)と娘・マリア(玉城ティナ)の物語に巻き込まれていくという形で、原作のその後にあたるエピソードが展開されていく。
本作の興味深いところは、ヴェネチアを舞台に、誤って浮浪者を殺したことで「幸せの絶頂の時に“絶望”を味わう」呪いをかけられ続ける男・田宮の数奇な人生という、一見特殊で壮大なエピソードが、実は観客と馴染み深い数多くの普遍的な事象に基づいていることだ。
本作の主要アイテムとなっている仮面は、作中の露伴の台詞通り「見る人間の感情によっては、怒っているようにも、笑っているようにも見える」能面を思わせるし、彼が度々口にするヴェネチアを襲ったペストの歴史は、こちら側の日常を襲った近々の災いであるコロナ禍と密接に重なり合う。だからこそ「呪われ続ける」という「かつてこの街を襲った疫病のように理不尽」な運命を受け入れてそれでもなお生きる男・田宮の人生は、決して遠いものではないのかもしれないと思わせるのである。
また、「“幸せの絶頂”に辿りつく」のが怖いから次々と襲ってくる「幸せ」を少しだけ手放して生きてきた田宮や、敢えて不吉なものを身に纏い生活してきたマリアの姿は特殊ではあるけれど単に「慎ましく生きる」ことを美徳とする人の姿にも見えるし、娘が「一番好きな人と結婚する」結婚式という“幸せの絶頂”を自身の不幸に繋がるからと父親が拒もうとする物語そのものも、どこか普遍的で古典的な父親の心理を描いた作品のように見える。そのような構造を持つ本作が、登場人物それぞれに投げかけるのは、理不尽に襲いかかってくる「絶望」あるいは「幸せ」とどう向き合うかということだ。