救いようのないダークな物語『悪縁』にみる、韓国と日本における“倫理観”や“道徳感”の違い
しかし、この救いのない物語や、悪人と悪人、事件に巻き込まれる被害者たちの関係、そして「殺してやりたい……!」という思念がいくつも錯綜する構図を描くことで、いったい本シリーズは、何を表現しようとしているのだろうか。
そのヒントとなるのが、本シリーズの英題である「カルマ(Karma)」という、古くからインドに伝わり、さまざまな思想に派生している哲学的、宗教的概念だ。これは、自分のおこなった行為が、時間をおいてまた本人に返ってくるというもの。善い行いをすれば善い結果が返ってくるし、悪い行いは悪い結果をもたらすのである。それを意識しながら観れば、本作の至るところで、このカルマがはたらいていることが理解できるだろう。
カルマにおけるポイントは、“行為の裏にある意図”にこそある。その人物の行為が大きな被害をもたらしたとしても、知らずにやってしまったことは“悪業”にはなりにくいのだという。悪いことだと知っていて、あえてその行為に及んだときに、はじめて悪のカルマが発生するのである。そのように考えれば、ある登場人物が“知ろうとしないこと”を選ぶことで、カルマの因果の外へと抜け出る展開も納得できるかもしれない。本シリーズは、悪人のための作品というより、むしろ逆説的に道徳観や、そこに内包される哲学的な論理を問うている内容だといえるのだ。
一方で、カルマを内包する仏教では、世界の仕組みを知ろうとせずに無知であることを「無明」と呼び、煩悩の一つであるとされている。また仏教には、生き物が生前のカルマの度合いによって、いろいろな動物や人間に生まれ変わっていくという「輪廻転生」という考え方もある。悟りをひらくことで、輪廻を抜け出し解放されることが最高の状態であるとする仏教において、知ろうとしない姿勢はポジティブなものとは考えづらいところがある。つまり、カルマを内包するはずの仏教的な考え方でいくと、本シリーズの結末における選択には違和感があるということになる。
日本では、カルマの概念は仏教とともに運ばれ、信仰における重要な要素となっている。熱心な仏教徒でないとしても、またそもそも仏教徒ではなくても、「因果応報」という言葉で、その考え方は広く知られている。「悪いことをすれば良くないことが起きる」という因果応報の考え方は、仏教から派生した民間の道徳として庶民の間で定着しているのである。だから本シリーズで描かれる展開も、直感的に理解できるはずである。
対して韓国も、仏教由来の「因果応報」の観念は残っている。しかし韓国では、仏教が伝来した後に王朝によって抑圧された歴史がある。だから、日本にも影響の強い思想「儒教」が、より大きな道徳の柱となっている経緯があるのだ。つまり、韓国における因果応報は、「輪廻転生」や「前世」のような仏教的な世界観を、基本的には前提にしてはいないのではないか。本シリーズにおいて、カルマがあくまで現世にとどまり発動するというのは、韓国特有の“儒教と仏教由来の「因果応報」がハイブリッドされた”考えからきていると推察できるのである。
だからもし、日本人の視聴者が、本シリーズにおける「因果応報」、「カルマ」の描き方に、なんとなく違和感を持つのは、ある意味で当然だといえるのかもしれない。だが、違うということからそれを忌避するのでなく、そういった地域性や道徳観の成立の違いを知ることで、学びに利用した方が有意義ではないだろうか。韓国と日本には、歴史的にさまざまな軋轢や考えの違いが存在するが、互いに培ってきた倫理観、道徳観の微妙な差異を知ることで、ドラマや映画の理解がより促進し、相互の理解が深まっていくはずなのだ。
■配信情報
『悪縁』
Netflixにて配信中
出演:シン・ミナ、パク・ヘス、イ・ヒジュン、キム・ソンギュン、イ・グァンス、コン・スンヨン
制作:イ・イルヒョン
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