『らんま1/2』が2024年にリメイクされた理由 日本アニメの“クィア的視点”をどう捉え直す?

“男性の中の女性性”と“女性の中の男性性”

 物語の中心は、乱馬とあかねのラブロマンスである。物語の中心線は、ジェイン・オースティンの『高慢と偏見』のような、最初は互いに反発し、偏見を持ったり喧嘩をしたりしていくが、徐々に互いのことを知り、変化し、心を通わせていくプロセスにある。

 「男らしさ」「競争」「勝利」をパロディ化している冒頭からは、競争的で勝利を目指す「男性性」を克服し、共感的で愛を重視するように変化する、という主題系がこの冒頭から予測されるが、乱馬も、戦うことや最強を目指すこと以外の価値を見出すという内容は、かなり早い時期に達成されてしまう。

 序盤で決定的な出来事は、あかねが髪を切り、同時に失恋したときに、乱馬が思いやりを持ち、彼女を励まそうとするシーンである。あかねもこのときには反発せず、2人の間にはいい感じの空気ができて、乱馬もあかねがかわいいと感じる。新しいアニメ版の第5話で、関係性はいったんひと段落する。

 男性が競争や勝利ばかりを目指すのではなく、共感的で思いやりのある存在になる。という方向だけが、本作の描いたことではない。むしろ重要なのは、あかねの方なのではないかと、観ていて思った。序盤の彼女は、男性に負けたくないと思い武道に励み(それは家業でもある)、強くなろうとし、自分自身の感情に正直ではなく、怒り続けている。その様子を乱馬(らんま)にひやかされもする。このような、競争的で攻撃的で、常に怒っているような女性を、現実で見かけることも多い。

 昨今のエンターテインメントは、女性をエンパワメントするために、女性を強い戦士や企業人として描く傾向がある(河野真太郎『戦う姫、働く少女』などを参照)。そのような作品の中には、「男性的」とされた、戦士、戦い、企業、政治などの世界に女性が参入していく物語が多く、それらをロールモデルとして女性たちは社会の中で活躍してきた。

 それは、「女性的」な、従順、受け身、空気を読む、主体性のない立場を強いて、従属させ、搾取させ、自由を奪おうとしてきた旧来的な家父長制が支配していた時代においては、有効だし、必要なことだった。しかし、生物学的な女性が、「男性的」な性格になっていくことが、問題の解決なのだろうか。

 男性学の古典的な著作『マスキュリニティーズ』を著したレイウィン・コンネルは、競争的で勝利を目指し共感性のないタイプの男性性を「へゲモニックな男性性」と名づけ、こう述べた。「ヘゲモニックな男性性が支配している制度的秩序の内に長期的傾向として存在しているのだ。これらの傾向は、世界的規模での軍事技術による危険性の増大(少なからぬ核兵器の拡散)、長期間にわたる環境の破壊、そして経済的不平等の拡大を生み出しているのである。競争的で優越志向の男性性を成功裏に維持するということは、世界秩序の中心的な制度において、ここに例示したようなそれぞれの危機傾向をより危険なものにし、よい方向への転換をさらに困難にしているのである」(p295)。

 それに対し、コンウェルは、男性が、共感的で情緒的な方向に変わっていくことが必要だと述べていた。本作は、明らかにヘゲモニックな男性性を批判し、その問題性を変え、共感的で、心の通い合う存在になっていくことを願う作品であると言える。

 その上で、コンネルがこう言っていることが重要である。「もし問題が基本的に男性性にあるとすれば、パーソナリティの再形成に続いて、構造的な変革がもたらされるべきだろう」、その場合、「女性のパーソナリティに宿っている男性性」(p316)にも注意を払うべきだと。

 生物学的な女性が、旧来の「男性性」を持つならば、それは単に男女が入れ替わるだけで、戦争、搾取、不平等に満ちた世界は良くならないし、女性たち自身も疲弊するだろう、と警告しているのだ。

 実際、『らんま』の作品の中でも、「戦い」「競争」的な価値を滑稽化し皮肉にするパロディの矛先は、男性にばかり向くのではない。冒頭で、男たちが、戦いやスポーツで勝ち、女性を獲得する(相手の気持ちを無視して)という、少年向け漫画を批評的にパロディ化した直後には、その男女を逆転させ、男であるらんまを「トロフィー」にした、あかねと小太刀の争い(新体操スポコンのパロディ)が描かれる。小太刀のキャラクターは、ロマンチックで陶酔的な少女漫画のキャラクターへの批判になっており、女性も「トロフィーワイフ」的な競争や争いをすることを見事に批評している(その他、男性性、女性性の嫌な性質も、ギャグの形で結構描かれている)。

『らんま1/2』は、男性並みになろうとする、自立的で主体的な女性を描きつつ、その「男性性」を矯めようとする作品でもあるのだ。ここに、現在に通じる、鋭い批評性がある。らんまのような「競争」「勝利」的な価値観を、あかねも共有している。この2人が、関係性を深めていく中で、そうではなくなっていくプロセスが、『らんま1/2』という物語なのである。

 『らんま1/2』は、本質主義的・生物学的なジェンダー観を避け、男性の中にある女性性、女性の中にある男性性を認め、両者のバランスや関係性を探る(どちらかと言えば、競争や戦いよりも、共感や心の通じ合いの価値を重視する)作品だと言える。作品全体の、「戦い」(のパロディ)と、「ラブコメ」(心の通い合い、親密さの深まり)の絡み合いも、それを示しているかのようである。

日本アニメのクィア的な再解釈・再文脈化に向けて

 さて、余談であるが、本作は海外であれば「クィア的」と呼ばれるだろう、と思った。「クィア」とは、ゲイやレズビアンやトランスジェンダーなどを指す用語であるが、日本以外の国でアニメなどに関連する発表をしたり、観たりしていると、頻繁に「日本アニメはクィアである」と評され、その例として、『君の名は。』や『美少女戦士セーラームーン』が挙げられる。日本以外の国の若い世代に日本アニメがそのように受け取られる文脈があるようなのだ。戦争や暴力やビジネスなどのマッチョさ、男らしさの規範が過度に強い社会においては、アニメを観るという行為自体が、「男らしく」ないことと見做されがちであるので、日本国内における「マジョリティ男性がアニメを観ている」という印象とは文脈が異なり、アニメを観るという行為自体が、ある種の文化的抵抗や意思表示だと感じられやすいのだろうと思われる。

 では、この文脈の違いを、どう理解したらいいのだろうか。筆者は、漫画版の『らんま1/2』を当たり前にごく普通に読んでいたし、アニメの『セーラームーン』も観ていた。それが現代の世界では「クィア」と見做されている。では、それらの作品を観てきたことは、ジェンダーアイデンティティやセクシュアリティにどのような影響を与えているのだろうか。それは、現代日本の「男性性」「女性性」にどういう影響を与えているのだろうか。

 『らんま1/2』の新しいアニメは、Netflixを通じて世界に届き、その反響がフィードバックすることを通じて、我々にその問いをどうしても突きつけることは避けられないだろう。それは、やがて、日本アニメをクィアの視点から再解釈し、再文脈化する議論を発展させることになるだろう。

■放送情報
『らんま1/2』
日本テレビ系にて、毎週土曜24:55〜放送
Netflixにて、放送直後より独占配信
キャスト:山口勝平(早乙女乱馬役)、林原めぐみ(らんま役)、日髙のり子(天道あかね役)、高山みなみ(天道なびき役)、井上喜久子(天道かすみ役)、大塚明夫(天道早雲役)、チョー(早乙女玄馬役)、山寺宏一(響良牙役)、佐久間レイ(シャンプー役)、杉田智和 (九能帯刀役)、佐倉綾音(九能小太刀役)、森川智之(小乃東風役)、宮野真守(三千院帝役)、悠木碧(白鳥あずさ役)、緒方賢一(ナレーション)
原作:高橋留美子『らんま1/2』(小学館『少年サンデーコミックス』刊)
監督:宇田鋼之介
シリーズ構成:うえのきみこ
キャラクターデザイン:谷口宏美
総作画監督:谷口宏美、吉岡毅、齊藤佳子、大津直
メインアニメーター:内藤直、青木里枝
POPアートワーク:北村みなみ
美術監督:大川千裕
色彩設計:垣田由紀子
撮影監督:加納篤
編集:柳圭介
音響監督:宇田鋼之介
音響効果:長谷川卓也
選曲:茅原万起子
音響制作:dugout
音楽:和田薫
オープニングテーマ:ano
企画プロデュース:小学館集英社プロダクション
制作:MAPPA
製作:『らんま1/2』製作委員会
©高橋留美子・小学館/『らんま1/2』製作委員会
公式サイト:https://ranma-pr.com/
公式X(旧Twitter):https://x.com/ranma_pr
公式TikTok:https://www.tiktok.com/@ranma_pr

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