宮台真司×荘子it「テック時代の恋愛論」 濱口竜介監督作『偶然と想像』をめぐって

「もう一つの現実」の想像こそ福音

『偶然と想像』©2021 NEOPA/fictive

荘子it:実際、この映画の良さがわからないという人も身近にいて。で、彼がその理由を「自分にはこういう実体験が伴ってないから」って言ったのがすごい気になってて。別に我々もそのまんまこういう実体験があるわけではないじゃないですか。宮台さんは以前対談した時(『崩壊を加速させよ』対談)、「体験質が伴わないと映画から得るものも減る」と仰っていましたが、既知のものだからすんなり受け取れるということではなく、むしろ未知のものだからこそ魅了されることの方が大事だと思うんですよ。

 「もう一つの現実」というテーマは『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』や『スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム』などのメタバース的なSF作品で表現されていてみんながすんなり受け入れている。俺も宮台さんもADHDですが、『エブエブ』の描写はADHDの見ている世界を映像化したものとも評されています。ただ、そういう作品も面白いんだけど、『偶然と想像』は現実が現実のまま半歩だけ想像の世界に繋がっているような体験ができる作品というか。画面的には地味で、人物が喋ってるだけなのに、豪華な画面の大作SF映画よりも遥かに興奮する。

宮台:同感です。何かに似ていると思い返して浮かんだのが、石井隆が原作・脚本の『ヌードの夜』。普通に観ると分からないけど夢落ちです。探偵の男がヒロインの女を守ろうとする。その女が自動車事故で川で溺死した。石井隆らしいけど、もし死ななかったなら……という世界が、「もう一つの現実」として描かれます。「現実」はこうなっちゃったけど、本当はこうしたかったんだという「もう一つの現実」です。

 これは並みのSFよりもSF的です。宮﨑駿のSF短編『On Your Mark』が「もし死ななかったなら本当はこうしたかった」を描きます。変な作品で、仲間と天使が死ぬ「現実」を描いた直後に、死ななかったらあり得た「もう一つの現実」を描くんです。CHAGE and ASKA同名曲のPVで台詞も説明もない。後のオウム真理教を思わせるカルトや、後のフクイチを思わせる立入禁止区域が描かれていて、なおさら泣けます。

 ポイントは予言が当たったことじゃない。「本当はこうしたかったのに」が、個人の夢を越えて社会の夢でもあったんだと語ってくれたこと。だから、元々はオーウェルやハックスリーの社会批評から出発したSFの王道ーー例えば人類死滅後の「本当はこうしたかったのに……」という社会の夢を火星人を通して描くブラッドベリ『火星年代記』や犬を通して描くシマック『都市』ーーに連なります。だから泣けるんです。

 濱口さんの『偶然と想像』は「なぜ泣けるのか」を解き明かします。「本当はこうありたかったのに」とリグレットを抱えながら実際には挫折した現実を生きること自体が、福音ではないのか? だから泣けるんじゃないのか? と解き明かすんです。このリグレットを福音だと思えない人には恋愛の意味がないだろうとまで語る。恋愛の実りは、本当はこういう成就があり得たのにって思いつつ凹む営みにあるんだと。

荘子it:望み通り幸せになることが目的ではなくて、後悔とか、その感情の機微を得ることでより深く人生を味わうために生きてる。なかなか受け入れ難い世界観のようにも思えるけど、ある意味でそうなのかもしれないですね。

 今日改めて『偶然と想像』の第3話を見返して思い出したんですが、冒頭の同窓会のシーンで夏子が話しかけられた、名前も忘れてた同級生が、夏子が帰っていく後ろ姿をじっと見てるっていうさりげないカットがある。きっと彼女も、何か夏子に対して思いを持っていたのだなと分かります。逆に、夏子がカツ丼屋で店主に「高校の時によく来てたんです」「私のこと覚えてないですか?」って聞いたら、さらっと「いや覚えてない」って。つまり、片方はめっちゃ覚えてるけど、片方は全然覚えてない。そういうモチーフが繰り返されてる。だからやっぱり夏子が大事にしている思い出の、高校時代に同性のカップルだったその相手の方は、きっとそこまで、夏子ほどには夏子のことを覚えてない。

 何が言いたいかというと、濱口竜介の描く映画には、それだけ閉ざされた人間同士、まあモナドみたいな存在しか出てこないわけですよね。濱口竜介が藝大時代に課題でリメイクした『惑星ソラリス』と同様に、どこまでいっても見たいものしか見れないんだけど、それでも複数の存在が一緒にいて豊かな時間を過ごせるとしたら、それはどういう時だろうというテーマを持っているとも言える。だから宮台さんの言う「同じ世界に入る」も、本当に同じ世界に入ってるというよりは、お互いがお互いに対して、忘れられない過去の思い出だったり見たいものを投影し、現実に目の前にある相手を2重写しにしあいながら、微妙にずれた世界がある時、偶然交じり合うということ。その一瞬に全てをかけているんじゃないかと思うんです。

錯覚だからと諦めれば恋愛は不可能

宮台:パラフレーズします。第3話のキーワードは「違和感」。男と違って女はたいてい違和感を感じつつその場にいてコミュニケーションをしてるんだと。全ての濱口作品を通底するモチーフです。だから荘子itさんが仰るような微細な映像センスが真骨頂になるんです。荘子itさんが仰った象徴的な「女と男」の非対称性。詳しく掘れば、ラカンが「女も男も、〈女〉を参照して自己を評価する」という時の非対称性です。

 それが象徴的だという意味を示す逸話を話すと、フェミニズムの大家・江原由美子先生に「僕は女の子に生まれたくて、久しぶりに会って『わー、久しぶり』ってやるのが本当に昔から憧れだったんです」と言ったら、江原先生が「バカなの? あれは一つのお作法で、あなたが言う『同じ世界に入ってる』云々じゃないの」って(笑)。この「お作法」が、「女は〈女〉を参照する」という自我理想を支える言語ゲームを意味します。

 もっと平たく言えば、「宮台君は、女の『ごっこ遊び』をマジガチで受け取っちゃってるのね……やれやれ」(笑)。単なるズレを、想像的に成就の一瞬と重ねる、という荘子it君の話はその通り。ただ、ポイントは「勘違いなのに……」じゃなく、「違和感を感じつつ敢えて『ごっこ遊び』する営み」に濱口さんが最大の憧れを表明している点。濱口さん自身が恋愛が得意なように見えないのは、憧れが強すぎるからかも(笑)。

 僕は男ですが、第3話の2人が途中から自覚的に展開した「ごっこ遊び」が好きで実践して来ました。荘子itさんが女だとすると、僕は荘子it嬢から、「こんな男だったけど、こんな風に性交し、こんな風に別れた」という話を聞き出し、「じゃあ僕がその男になりきって、君が本当はこうあってほしかったと思う『もう一つの現実』を僕なりに想像して演じてみるよ」ってやるのが大好き。「上書きプレイ」と呼んで来ました。

 僕はAV嬢を含めて何人かの女優さんと付き合って、女優さんには上書きプレイーー「過去に戻れたらこうしたかった」プレイーーをやることが好きな人が多いと感じました。それは第3話から荘子itさんが感じたように、とても豊かな営みです。むろん「今ここ」で、「同じ世界に入り」「同じゾーンに入り」「同じフローに乗る」営みが出来ればそれに越したことはないけれど、たいていはロマンチックな夢で終わります。

 つまり一瞬後に「あぁ勘違いか」と気付く。だから諦めるんじゃなく、「現実にはなかったこと」を「現実にあったこと」のように扮技して「どんな前提があれば現実にあり得たのか」を想像すべきではないのか。そこでのポイントは、誰もが違和感を抱えつつ生きていて、「もう一つの現実」を想像せずにいられない「同じ穴のむじな」で、そのリグレットにおいて「同じ世界で一つになれる」こと。第3話はそれを描きます。

テックによる疑心暗鬼を逆利用する知恵

宮台:1998年に『SPA!』が僕の提案で「パートナーの携帯を盗み見たことがあるか」を調べたら7割がイエス。その大半が相手が第3者と交わすメールから「思ってたのと違う」を見付けています。最近の僕の調査ではマッチングアプリで出会った相手がアプリを手放していないと想像する男女が7割。テックが「同じ世界で一つになる」困難を高次化する中、それでも「同じ世界で一つになる」方途を考えさせるのが第3話。

 欧米ではFacebookで幼馴染みや旧恋人を見付けて火が付く不倫が量産中です。この普遍的な傾きを前に、「所詮は知らぬが仏」だから「疑心暗鬼ゆえ深入りしない」作法が拡大。相手に没入する恋愛が非恋愛的なカレシカノジョ関係へと既に置換されました。だから性愛に実りがなくなり、どの国でも多かれ少なかれ性的退却が進んでいます。そんな中、「同じ世界で一つになる」唯一の方法を第3話が示すんですね。

荘子it:ある種の女性のコミュニケーションって、まさに日常から演技の訓練をしてるとも言えて、それは両義的なことだと思う。それゆえに女には女の地獄があるし、女同士の関係にもめちゃめちゃ嫌なことはあるんだろうけど、でもその演技というか、なりきりというものをすごい日常で磨いてるからこそ、現実を二重写しにしたような次元で、ある種、奇跡的な瞬間を成し遂げる能力に長けてるとは言えるかもしれない。

 それは、結局女だって本当は嫉妬し合って、蹴落としあってるじゃんというツッコミとは全く別次元の話で。究極的には男女関係なく、複素数的な空間にしか真実のコミュニケーションはなくて、そこにたどり着ける能力をより磨けてるのは確かに女性の方が相対的に多いっていう、そういう話だと思う。

宮台:尺が1時間だから第3話に絞ったけれど、第1話も第2話も凄い教育的です。一言だけいえば、依存される関係に依存する「共依存」を否定してシタリ顔する頓馬が増殖中ですが、共依存を欠いた実りある性愛はなく、関係の自己破壊的スパイラルを避ける知恵だけがあり得ます。理想のコミュニケーションがあり得ないがゆえの不全感こそが理想のコミュニケーションの糧になるという逆説が、その一つです。

 互いの意識が飛ぶ理想の性交が大切でも、それで可能になる「同じ世界」は言語外の「いちゃいちゃ次元」に留まり、相手の唯一性をもたらさない。唯一性をもたらすのは言語的な「関係性次元」のみ。それをテックが困難にする中では、リグレットに於いて「同じ世界」に入る営みこそ知恵になり、論理的に「性交の忘我」より「ハグの忘我」が大切になる。それを語れる荘子it君は相当の挫折を経験して来たと拝察します。

注釈
この対談は3月2日に西岡裕人氏が主催する『饗宴』第7回:宮台真司のバースデイ・パーティーにおいて、西岡氏の発案でなされたものです。文字起こしの転載を許諾してくださった西岡裕人氏に、心からの感謝を申し上げます。(宮台真司)

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