アニメキャラの魂は“声”か“絵”か 「声優変更」が「キャラデザ変更」以上に論争を呼ぶ理由

声が魂のVTuber文化の拡がり

 アニメ作品以上に、声がキャラクターの核と認識されているのがVTuberだ。VTuberは、モーションキャプチャで声を発する演者自身がモデルを動かすことが多いために、動きと声を同じ人物が担っているとも言えるが、外見のデザインそのものはイラストレーターなどによって生み出される。声を発する人間は「中の人」、あるいは「魂」と評される。

 VTuberの声が重要だという認識は、キズナアイの分裂騒動で顕著に表れた。異なる声を持つ4人のキズナアイが登場したが、紆余曲折を経てこの試みは失敗に終わっている。これについてさまざまな議論があったが、集約すると声が変わったことの違和感を払拭できなかったのだ。

 「中の人」が別のVTuberになることを「転生」と呼ぶことがある通り、声こそがそのキャラクターの魂であるという認識は、VTuberの世界では半ば常識となった感がある。

 こうした感覚は、VTuber誕生以前の初音ミクにもあった。初音ミクには固有の声がある(公式が発売する、藤田咲の声をもとにしたボーカロイドソフトウェア)。外見については、KEIによる公式キャラクターデザインがあっても、それ以外のさまざまなイラストレーターやアマチュアの絵師を含めて、多くの作家によって様々な絵柄が生み出されていることが、ボーカロイドのカルチャーを豊かにしていて、そのどれもが初音ミクと認識されている。

 初音ミクもVTuberも、アニメやマンガの記号性ある表象を利用した存在だが、その同一性を担保するのは、声である。VTuber文化が広まれば広まるほど、アニメにおいても同一性を担保するのは絵柄やデザインよりも声であるとする認識は強まっていくのではないか。今後は、声こそがアニメのキャラクターをキャラクターたらしめる「要石」と言われるようになるかもしれない(AIボイスがより普及したときにこの傾向がどうなるか、筆者にはまだ予測がつかないが)。

 そもそも、声というものが人に与える印象は非常に大きい。『声のサイエンス』(NHK出版新書)の山﨑広子は、声として発せられた言語は、大脳で知的領域を担う新皮質で内容が受け取られる一方、音としての声は旧皮質、人間の本能領域にあたる部分を刺激することを紹介している。そのため、声で発した言葉は、内容以前に「心地よい、悪い、好き、嫌い」という本能的な感情を起こさせるという(※)。

 アニメの声優変更で視聴者に起きる反応にも、聴覚の性質が関係していると筆者は思う。いつもと違う声がすると、本能領域で違和感を感じてしまうことがあるのだろう。アニメを観ると声の力の大きさを痛感するのは、こういう脳機能的な観点からも説明できると思う。

 それでも、アニメは絵がなければ始まらないわけだが、映像は実写もアニメもビジュアルに主体があるようで、実際には音とビジュアルによる総合的な表現である。アニメのキャラクターも、絵と声のコラボによって生み出されており、当然どちらも欠くことはできない。

 ただ、アニメの原形質的な魅力を考えると、声という強い要石を活かしつつ、外見は変化できるという強みを活かすのが面白い表現につながるのではないかと思う。そういう意味では、制作会社が変わってキャラクターデザインが変わるのも、それはそれでアニメの面白さの一部ではないだろうか。各話の絵柄の揺らぎもある程度楽しめるのも豊かさがあっていいと筆者は思う。

参照
※ 杉本穂高『映像表現革命時代の映画論』(星海社新書)

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