『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』徹底解説 原作からの“脱構築”的試みを読む
さて、友引高校から帰宅しようとしても自宅への道を見つけられないことで、いつものメンバーたちも、この世界の異変を察知することになる。大勢であたるの家に居候する事態に陥った面々は、終太郎が組織する「真相究明委員会」に参加することになり、面倒財閥所有の垂直離陸機「ハリアー」につかまって、友引町からの脱出を試みる。だが彼らは、そのとき信じられないものを目にし、友引町への帰還を余儀なくされることになるのだ。
それからいったい、何年が経ったのか。千葉繁が声優を演じるキャラクター、メガネは、荒廃してすっかり姿を変えてしまった友引町を眺めながら、「友引全史」と名付けた自著である歴史書、第1巻「終末を越えて」序説第3章を、炎天下のなか名調子で朗読していく。それは、「私の名はメガネ。 かつては友引高校に通う平凡な一高校生であり、 退屈な日常と戦い続ける下駄履きの生活者であった。だが、あの夜、ハリアーのコックピットから目撃したあの衝撃の光景が私の運命を大きく変えてしまった。……」からはじまり、「ああ、選ばれし者の恍惚と不安、ともに我にあり。人類の未来がひとえに我々の双肩にかかってあることを認識するとき、めまいにも似た感動を禁じ得ない。」とまで続く。あまりに長すぎるため、熱中症で倒れるというオチまでついている。
ここに至って、押井守監督がアニメ界、映画界に刻みつけようとする、野蛮なほどに知的なアプローチや、異端とも感じられる前衛的な試みが明らかになってくる。“子どもも大人も楽しめるアニメ”ではなく、“大人こそ楽しめるアニメ”のジャンルを切り拓いていく押井守監督の作家性が、ここから本格的にスタートしていくのである。
そんな押井監督の『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』は、海外にも多大な影響を与えることとなる。ジェームズ・キャメロン監督や、ウォシャウスキー姉妹監督をはじめ、世界のクリエイターたちにインスピレーションを提供し、映画や映像分野を変革していく、重要な業績も成し遂げているのだ。また、クリストファー・ノーラン監督の『インセプション』(2010年)は、おそらくは偶然ながら、本作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』の内容に非常に近く、本作の翻案作品だとしても違和感がないほどである。
ストーリー以外の点でも、本作は見どころが多い。なかでも哲学的なテーマが表れるところでは、例えば、屋外の水道の蛇口から水が流れ、地面に湾曲した真夏の空が映って広がっていく幻想的な場面や、DNAの螺旋構造が動いていくような背景など、まさに“映画”としか言いようがないスペクタクルや、繊細な感覚を味わうことができる。ストーリーの面でも、ヴィジュアルの面でも画期的な本作は、宮﨑駿監督の『ルパン三世 カリオストロの城』(1979年)に並ぶような、まさに「完璧な映画」とでも呼びたくなるような完成度を誇っている。
一方で、この押井監督の持ち味が、あまりにも突出し、原作の設定やテーマを大幅に逸脱した映画について、原作者の高橋留美子は、どう思ったのだろうか。後に本作について高橋が「押井さんの『うる星やつら』」だと述べ、押井監督が「逆鱗に触れた」とまで表現しているように、少なくとも絶賛した前作『うる星やつら オンリー・ユー』に対する好意的な反応に比べると、快いものではなかったようである。
原作と映像化作品との関係については、さまざまな議論がなされているが、少なくとも本作が、高橋留美子の天才性とは異なる才能で価値を生み出した映画であり、原作者の作品に託したテーマや意志と全く別のところで、後世に残り続けるだろう名作に仕上がったことは確かである。これは、よりハードでシリアスなテイストをとり入れた『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』などや、高畑勲監督、宮﨑駿監督などにも言えることだ。このような作品があるからこそ現在のような、“原作に忠実な作品づくり”が徹底されるようになってきている状況が、唯一の正解であるとは思えないのだ。
さて、そんな本作『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』は、このような“繰り返しの日常からの脱出”を描くことで、何を表現しているのだろうか。それはまず、原作からの「脱構築」的試みなのだといえよう。もともとドタバタ劇である『うる星やつら』はもともと、基本的に1話完結型で、日常のなかで起こるさまざまな事件や騒動を題材としていくものだ。大きなストーリーがあり明確な目的や結論に向かって進んでいくものではない。つまり登場人物たちは、“繰り返しの日常”を生きているといえる。
本作では、そんな構造のなかで連日バカ騒ぎを続けている登場人物たちが、自分たちの世界が虚構であるということに気づいてしまうという、メタフィジックな仕掛けになっているのである。本作のストーリーでは、その世界を創造した人物が劇中のキャラクターであることが明かされるが、おそらく実際に本作が言いたいのは、全ての中心にいるのは原作者であり、そのなかでいつまでも終わらないエピソードを楽しみ続けたい、われわれ自身ということなのではないのか。
前作『うる星やつら オンリー・ユー』で押井監督は、そういった世界を引き継いで、広げていった。しかし本作は逆に、作品世界に疑問を持ち、そこに風穴を開けることで、“閉じられた気持ちよさ”、“魅力的な束縛”から脱する意志を見せようとするのである。こういった姿勢は、後の『新世紀エヴァンゲリオン』や『少女革命ウテナ』など、後のクリエイターの作品に受け継がれていくことになるのだ。その意味で本作は、アニメーションにおける内部からのカルチャー批判の先駆けになっているところもある。
もう一つ注目したいのは、本作で登場人物たちが「異議ナーシ」といったセリフを何度か発している部分だ。これは、押井監督の子ども時代から青春時代にかけて盛んだった「学生運動」で、よく使われていた言葉だ。全共闘世代が、高倉健の主演する任侠映画において、ヤクザ社会の理不尽と戦う主人公のセリフや行動にシンパシーをおぼえ、スクリーンに向かって「異議ナーシ」と叫んでいた話は有名だ。
後の『機動警察パトレイバー 2 the Movie』(1993年)や『立喰師列伝』(2006年)で、反政府革命や安保闘争などが題材となっていることからも分かるように、押井監督は自分の生きた時代に起こった革命的な動きや思想が、高度経済成長の時代のなかではっきりとした決着もつかずに取り残されてしまった日本社会の現状について、疑問を持っているのだと考えられる。
その方向から見ると、まさに押井監督自身が、時代から切り離されたところでぐるぐると自問している構図が、本作の閉じた世界の描き方にも影響を与えていると感じるのである。メガネや終太郎が荒廃した都市でシリアスな表情を浮かべる風景それ自体が、『機動警察パトレイバー the Movie』(1989年)における、廃墟と高層建築が同居する東京の風景同様に、ある意味での「日本論」として理解することもできるのである。
■配信情報
『うる星やつら2 ビューティフル・ドリーマー』
Prime Videoにて配信中