『終わらない週末』はなぜ批評家と観客の間で評価が割れているのか? ネタバレありで解説

 では、ここで何を観ればいいのかといえば、何が起こっているのか分からない状態で暗中模索していく人々の姿そのもの、ということになるだろう。アマンダたちや、ケヴィン・ベーコン演じる陰謀論者は、いろいろな手がかりを基に仮説を考えてゆく。終盤では、ジョージがこれまでの出来事に辻褄の合う説明をすることになる……それすらも、一つの仮説に過ぎないのだが。

 真相が明らかにならないがゆえに、劇中で各々がめぐらせる思考や、交わされる議論は、そのほとんどが、依然として“あり得る話”のまま、われわれの記憶に残り続ける。だが、もし例えば、よくあるサスペンス映画のように、ラストで驚愕の事実が明らかになったとするなら、その瞬間に、ここで登場した考え方の全て、あるいはほとんどが「ミスリード」だったということが確定してしまうことになるだろう。

 よく「どんでん返し」が期待される、M・ナイト・シャマランの一部の監督作に顕著なように、結末部において驚くような展開がある作品というのは、観客を瞬間的に惹きつけ満足させる効果がある一方で、その展開が奇抜であればあるほどインパクトの方に作品全体が引っ張られ、作品内のさまざまな描写の意味が、振り返ってみると一つの色に塗りつぶされてしまっていた、ということになる場合も少なくない。しかし本作は、結末が確定しないからこそ、観終わった後でもそれぞれの仮説や考え方に、それぞれの意義が残存するのである。このあたりが、批評家が本作に魅力を感じる点なのではないか。

 われわれも災害の度に経験しているように、有事の際は身の回りの噂やSNSの書き込みで、デマや陰謀論が飛び交いがちだ。さらに、もともと存在する価値観の違いや憎悪、新たに生まれる諍いによって、人々は分断されてしまう。もともと良好な関係だったジョージと、ベーコン演じる男の間にも壁が生まれ、人種間の警戒感も顕在化してしまう。このように有事の際の社会問題がフォーカスされていくあたりは、本作の原作小説をバラク・オバマ元大統領がお気に入りのリストに入れていて、ミシェル・オバマとともに製作会社「ハイヤー・グラウンド・プロダクションズ」を通してプロデュースしている意義がある部分だといえよう。

 このようなときに、われわれは人間の醜い部分を再確認することになる。「人間は傷つけ合う。いつだってそう。気づかないうちに。おまけに、人間は地球上の生物を傷つけても平気だと思っている」、「妄想だらけの世の中を受け入れて、自分たちのひどい行いを見ないふりし続けている」……こういった、アマンダの人間に対する不信や諦念に、これまで意見を異にしていたルースも、思わず同調してしまう。

 われわれが依存している、現在のテクノロジーやシステム。それにはさまざまな問題が山積しているが、本作の展開のように、それすらも消えてしまえば、われわれはようやく繋がりが持てていたものを手放さなくなるのかもしれない。

 だが一方で、希望も描かれる。ジョージが、他人の息子であるアーチーのために命をかけたり、反目していたアマンダとルースが協力して事態を打開するように、極限状態のなかで人と人との繋がりや理解が生まれる場合もあるはずだ。目の前で困難に遭っている人を助けようとするのは、最新のテクノロジーなどなくとも古くから人間がやってきた、誇るべき営みである。社会に差別や偏見、不信感が高まるのと同時に、ここにきて、ポジティブな価値観もまた力を持ち始めるのだ。そういう“善性”があることで、かろうじて人は人でいられるはずである。

 自動運転やインターネット経由のサブスクリプションなどの最新技術が、異常事態に際して機能しなくなってしまうなか、レコードや映像ディスクなど、世代の古い記憶メディアが活躍するというのも、そういった構図の象徴として表現されていると考えるべきだろう。便利さや効率を追い求め続けるなかで、われわれはさまざまなものを切り捨てて、人間性を喪失し続けているのかもしれない。しかし、このような描写をNetflix配信作品として表現してしまうというのは、かなりパンクな試みだといえよう。

■配信情報
『終わらない週末』
Netflixにて配信中
監督・脚本:サム・エスメイル
出演:ジュリア・ロバーツ、マハーシャラ・アリ、イーサン・ホーク、マイハラ、ケヴィン・ベーコン、ファラ・マッケンジー、チャーリー・エヴァンス

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