『Saltburn』が真に描いたものは何だったのか 再び証明されたエメラルド・フェネルの才能

 伝統あるイギリス貴族の住居での暮らしといえば、ドラマ『ダウントン・アビー』のようなイメージを漠然と持ってしまうが、そんな場所で家族たちがポップミュージックやB級映画に親しんでいるように、現代においては上流階級でも文化的な大衆化がなされているという、リアリティある姿が見て取れる。その意味でいえば、逆にオリヴァーが古い文学作品に親しんでいるように、イギリス貴族という存在は、現代において特権的な文化に浴している人々とはいえなくなってきているのではないか。彼ら貴族を貴族足らしめているのは、もはや受け継いだ財産と名前、そして伝統ある土地を所有していることでしかないように思える。このように偶像を解体していくことが、監督のねらいなのだろう。

 外部からの訪問者であるオリヴァーは、次第に家族に取り入り、全員の人生にかかわり始める。この後の展開は意外なものになっていくので、自身で鑑賞して楽しんでほしいが、そこで強烈に想起させられるのが、イタリアの奇才ピエル・パオロ・パゾリーニ監督の映画『テオレマ』(1968年)だということを指摘しておきたい。この作品は、テレンス・スタンプが演じるミステリアスな青年が、その魅力によってブルジョワ一家を混乱の渦に巻き込んでいくというもの。

 そして、もう一つ思い浮かぶのが、イギリスに亡命したアメリカ出身のジョゼフ・ロージー監督による『召使』(1963年)だ。これは主従関係にある貴族と召使いの立場が次第に逆転していくという内容で、さまざまな虚飾が剥ぎ取られていけば、貴族はただの甘やかされた生活力のない人物に過ぎないという辛辣な視点によって、階級社会のくだらなさをからかっている。

 本作は、こういった既存の作品をフェネル監督流に解釈し、彼女の体験や考え方を組み込んだものだと考えることができる。そして同様に、貴族の人間性を解体していった先に残るものが、空虚な土地や建物であるといった、シニカルな結論へと帰着していく。

 「ソルトバーン」の幸せな思い出で印象的なのは、同年代同士で羽目を外し、裸になって地面に寝転ぶシーンだ。これは潜在的な同性愛関係の暗示とも受け取れるが、興味深いのは、その行為が後のシーンで近いかたちで繰り返されることだ。オリヴァーが「ソルトバーン」という土地を通してフィリックスと肉体関係を結ぼうとする表現は、フィリックスという存在が「ソルトバーン」と不可分であるということを示しているのではないか。つまり“フィリックスと寝る”という行為は、“土地や城と寝る”ということであり、逆に“土地と寝る”ということが“フィリックスと寝る”という行為に変換されるのである。そう考えるならば、土地や城を手にした者は、彼と同一化できるという結論に辿り着く。

 本作の鮮烈なラストは、一見すると即物的な逆転劇だと捉えられるが、このように作品の細かな描写を追っていけば、屈折したラブストーリーであることが分かってくる。オリヴァーにとって、生身のフィリックスに近づくことは、財力への接近であったが、じつは、その行動が現実的で実効的であるフェーズに入ったとき、むしろ精神的にはロマンティックな段階に入っていると考えることができる。こういったあべこべな心理や、別個の価値観が擦れ合う表現に、ある種のセクシーさが生まれている。この意味で本作は、社会性よりも個人の複雑な心情に接近している。

 個人的な世界を反映させながらも、社会の方にナイフを突き立てていた『プロミシング・ヤング・ウーマン』と比べると、本作のアプローチはセンセーショナルな要素に欠けるのは明らかである。前作のようなエッヂの立った内容を求めた観客には、やや物足りない部分もあったかもしれない。だが、エメラルド・フェネルという監督、脚本家の才能が、いかに自由闊達で引き出しが多いかということが、この『Saltburn』で証明されたと理解しても良いのではないか。

参照

※ https://www.glamourmagazine.co.uk/article/saltburn-director-emerald-fennell-interview

■配信情報
『Saltburn』
Prime Videoにて独占配信中
監督・脚本:エメラルド・フェネル
出演:バリー・コーガン、ロザムンド・パイク
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