『ゴジラ-1.0』山崎貴の“本領発揮”はまだ先に 虚構vs現実を踏襲したことで生まれた齟齬
焼け跡にゴジラはいなかった
第二次大戦末期の大戸島守備隊基地で、島では古来より呉爾羅と呼ばれた恐竜と遭遇するところから幕を開ける『G-1.0』は、『ゴジラVSキングギドラ』(1991年)に登場したアナログな恐竜とは隔世の感を抱くVFXで、冒頭から人間狩りを見せてくれる。
CGの効果とクオリティを見通し、なおかつ作業時間までも見積もることが出来る監督でなければ、全編にわたって高い質を維持し続けるVFXカットを配置することなどできないだろう。さらに特撮映画において鬼門とされる水を存分に用いて、海洋アクション映画として国産ゴジラ映画を再生させた点も感動的ですらある。
もっとも、筆者は山崎作品のVFXの質の高さを毎回堪能しつつ、物足りなさを覚えていることも事実だ。『SPACE BATTLESHIP ヤマト』(2010年)のように、実写化したところで失笑ものになる可能性が極めて高い企画を、マイナスからプラマイゼロまで盛り返す力量には感嘆させられたが、感心するあまりBlu-rayBOXまで買って見返すものの、感心するだけで終わってしまう。+1.0がないのだ。
このあたりは、個人的嗜好の問題になってくるが、多少チャチになろうとも、燃える特撮カットが観たいと思う者にとっては、贅沢とは思いつつも完成度の高いVFXだけでは物足りない。『シン・ゴジラ』のヤシオリ作戦のくだりなどは、ミニチュアのようにCGを作り込む疑似的な在り方によって特撮映画の醍醐味を味わわせてくれたが、『ゴジラ-1.0』では、そうした高揚感は訪れない。銀座のゴジラ襲撃シーンは確かに見事な出来栄えだが、大状況的な特撮を観たいと思う者にとっては、こじんまりした舞台装置の中を暴れているという印象になってしまう。それゆえにクライマックスで展開する作戦には胸が高鳴ったものの、メカニカルな描写を期待していると肩透かしを食う。
勝手な願望をついでに書いてしまえば、個人的に最も観たかったのは、〈焼け跡のゴジラ〉だった。米軍の爆撃によって焦土と化した東京へゴジラが上陸するも何も壊すものがなく、焼け野原で屹立するイメージが、ここで実現するかと期待していたからだ。
というのも、かつて、『レポマン』(1984年)、『シド・アンド・ナンシー』(1986々)などで知られるアレックス・コックス監督が『キネマ旬報』の誌面を通して、ゴジラの監督をしたいと東宝に嘆願書を出したことがあった。彼が構想していたのはゴジラの誕生まで遡るプロットで、白亜紀を舞台に恐竜が隕石の衝突で絶滅するなかを、ゴジラとその仲間が逃げ惑うというものだった。やがてゴジラは太古の夢から覚める。コックスは、「巨大なしっぽを体に巻きつけ、破壊されただだっ広い都市の中に独りうずくまっている。雷!壊れた電線がスパークする。ゴジラは孤独であった」と記したが、そのイメージに最も接近する可能性を持つのが『ゴジラ-1.0』だと思っていた。とはいえ、戦後間もない頃の銀座の空撮写真などを見れば分かるが、復興は著しく、映画で描かれていたように焼け野原など見当たらない。焼け跡にゴジラはいなかった。
神木隆之介はゴジラに取り憑かれたのか
ゴジラ映画における人間ドラマの問題は、70年前から論議されてきた。事実、今では日本映画史上の名作として名高い第1作の『ゴジラ』への公開当時の映画批評を紐解くと、特撮の評価は高いが、ドラマ部分に関しては批判が多い。
「小市民映画みたいなぼそぼそした演出をえんえんとはさみ、なんだか深刻な理屈まで加えて普通の劇映画も及ばぬくらい人物を懊悩させる」(双葉十三郎、『キネマ旬報』1954年12月上旬号)
「二人の青年と娘の恋愛が、なにか本筋から浮いているが、これは構成上の失敗」(『朝日新聞』1954年11月3日・夕刊)
「多分に説教臭が強いのは良くない。むしろ徹底的にゴジラに話を集中させた方が良かった」(『報知新聞』1954年11月7日)
「まずいのは人間の話のほう。(略)志村喬の学者でさえ、センチメンタルなサラリーマン程度。最後に若い科学者が怪物退治に新発明のナニカをもって海に潜るなんぞというのにいたっては特攻隊そのもので、困った精神である」(『サンデー毎日』1954年11月14日号)
まるで、『ゴジラ-1.0』について書かれたものと言っても通用しそうな批評ばかりだが、とはいえ、筆者もまた70年前と同じように、ドラマ部分には不満を募らせてしまった。
冒頭から登場する敷島(神木隆之介)が搭乗した零戦にしても、彼が特攻を忌避するまでにどういった状況にあったのか、同時に出撃した機があったのかなどは以降も明かされない。そうしたドラマは『永遠の0』(2013年)で散々やったから不要だと言わんばかりに、ドラマ部分は極めてミニマムに設定され、敷島に全ての責任が覆い被さるようになっている。大戸島の恐竜襲撃で稼働する零戦を目の前にしながら反撃できなかった敷島を、整備部の橘(青木崇高)は、自分たち以外が全滅したのは敷島のせいだと詰る。
敗戦後、焼け跡の自宅に帰ってきた敷島は、隣人の澄子(安藤サクラ)からゴジラみたいな獰猛な表情で、恥さらしと詰られ、「あんたらさえしっかりしていれば(負けなかった)」と、ここでもアメリカはおろか、戦争指導者も憎悪の対象とはならず、敷島に責任が負わされることになる。実際、この映画には敗戦を告げる玉音放送もなければ、闇市や銀座にもMPも警官の姿もなく、統治する存在の痕跡が消し去られている。
闇市で敷島と追われる典子(浜辺美波)が出会う場面では、あたかも狙いすましたように敷島の側に典子が走ってきて、それまで無気力そのものだった敷島も、なぜか唐突に典子の進路を遮る。
同じ戦後間もない時期の闇市が登場する『仁義なき戦い』(1973年)の冒頭では、MPが日本人女性を追い回してレイプしようとするのを菅原文太が助け、後から日本人の警官もやって来るもののMPに手出しはできずにまごついていると、文太は単身MPに殴りかかり、この隙に女性を逃がすよう警官を怒鳴りつける。占領下の日本が置かれた状況を端的に見せた見事な描写だが、それに較べると、『G-1.0』の闇市と出会いの描写は、随分とご都合主義に映る。以降も、銀座を襲撃したゴジラから逃げ惑う群衆のなかから敷島が典子を見つけ出すくだりも、あまりにも偶然と言わざるを得ない。
敷島の心情に寄り添って進行するものの、その特殊な心の在りようを描こうとしないので、バラックの室内で敷島と典子と子どもの場面など単調極まりない。また、残された戦闘機震電を対ゴジラ戦に使用するに際しても、その整備を橘に頼みたいと敷島が言い出し、ゴジラ再上陸まで時間がないというのに異様に固執するあたりも理解しがたい(震電を整備していた人材を探し出した方が確実ではないか)。
ゴジラの出現に対して日本は連合国の占領下にあるというのに放置され、政府はその存在すらないかのように、民間組織がゴジラ殲滅を一手に担うことになる。自助を第一とする方針に誰も異論を挟まず、旧軍人が参加者に多いにもかかわらず、誰一人として旧軍再興やら不穏な動きを見せる者もいない。そうしたドラマは排除され民間人が一丸となってゴジラの殲滅に立ち向かうことが肯定的に描かれる。ゴジラを殲滅できたところで、再び連合国軍がやって来て、占領が継続することへの不満を漏らす者もいない。
一方で、〈ゴジラVS敷島〉を描いた作品として観るのならば、納得もできる。本作の海洋シーンが『ジョーズ』(1975年)に範を仰いだことは、容易に想像がつく。ならば、その後に続いたシリーズが、主人公のブロディ一家をサメが執拗に追いかけてくる(『ジョーズ'87 復讐篇』では、東海岸からバハマまでサメが追いかけてくる!)呪いとしか言いようがない展開になったことを踏まえれば、『ゴジラ-1.0』のゴジラは、敷島を付け狙っているという仮説が成り立つのではないか。当初、敷島は好戦的な男で、零戦からゴジラに向けて機銃発射したために大勢の死者を出すことになったという設定だったというが、それが採用されていれば、生き延びた敷島を追ってゴジラが東京へ上陸したことが明瞭になっただろう。彼の匂いが付いた典子のいる銀座を襲撃するのも納得でき、さらに彼女が乗車していた車両を咥えたのも必然となったはずだ。