『ゴジラ -1.0』はなぜ戦争映画として不完全燃焼なのか 歴代作品に捧げられたオマージュ

『ゴジラ -1.0』を歴代シリーズから紐解く

 『ゴジラ-1.0』は、初代『ゴジラ』(1954年)のリブートだけで語れる作品ではない。約70年にわたる『ゴジラ』シリーズを愛する山崎貴監督の「こんなゴジラが見たい」がたっぷり詰め込まれた映画であり、だからこそ楽しめる点、矛盾した点を内包している作品だと言えるのではないだろうか。

※以下、『ゴジラ-1.0』のネタバレを含みます

 11月3日の公開から3週連続で週末映画動員ランキング1位を記録した『ゴジラ-1.0』。『シン・ゴジラ』(2016年)の成功も追い風となって、『ゴジラ』シリーズに馴染みのない客層まで多く取り込めているのは間違いなさそうだ。水爆によって誕生したゴジラが放射能をまとって日本を蹂躙し、兵器ではどうにもならないほど甚大な被害と絶望を与えるーー『シン・ゴジラ』同様、今回の『ゴジラ-1.0』でも初代『ゴジラ』のプロットが応用されており、そこに1947年という(初代『ゴジラ』よりさらに前の)時代設定が加わることで、“敗戦国・日本”を徹底的に印象づける作品になっている。

 そこでまず印象深かったのは、人が死なない『ゴジラ』を描こうとした点。初代『ゴジラ』では、芹沢大助博士(平田昭彦)が開発したオキシジェン・デストロイヤーでゴジラを倒すことに成功するも、それが兵器利用されることを恐れた芹沢博士は、自らもゴジラと共に海中で命を絶ってしまう。未来のために命を投げ出すという悲しい結末には、戦争の匂いが残る当時のリアルな時代性が反映されていたが、逆に『ゴジラ-1.0』では「犠牲を出さずにゴジラを倒す」ことを掲げ、その部分を描き直している。特にクライマックスでは初代『ゴジラ』と重ね合わせるかのように海上戦を展開。戦艦の乗組員たちが“一人の男の明暗”を案ずるシーンは、まるで初代『ゴジラ』のもう1つの結末を観ているかのようだった。

 だが、映画全体を見渡してみると、確かに初代『ゴジラ』のリブートという題目はありつつ、むしろゴジラを愛する山崎監督ならではの、平成VSシリーズ(1984年の『ゴジラ』〜1995年の『ゴジラvsデストロイア』)やミレニアムシリーズ(1999年の『ゴジラ2000 ミレニアム』〜2004年の『ゴジラ FINAL WARS』)の再解釈という側面の方が強いのではないかと思えてきた。つまり、戦争再来のメタファーとしてゴジラを描くだけでなく、エンターテインメント的に強いカタルシスを生むゴジラ映画を追求したのではないかということだ。思えば『シン・ゴジラ』までの全29作品の中で、登場怪獣がゴジラ1体しかいない映画は3作のみ。ゴジラファンの中でその3作だけが好みという人はきっと少ないはずで、脈々と受け継がれてきた「VSモノ」のDNAが『ゴジラ-1.0』には多分に含まれている。そして、そうした平成シリーズへのリファレンスが『ゴジラ-1.0』の在り方を如実に表している気がしてならないのだ。

 まず、平成VSシリーズからの興味深い引用を2つ紹介しておく。1つ目は冒頭、大戸島でのゴジラザウルスの登場だ。ゴジラザウルスとは水爆実験でゴジラに変異する前の恐竜の姿のことで、初めて登場したのは『ゴジラvsキングギドラ』(1991年)。同作では敗戦後の日本経済を立て直した男が、実は第二次世界大戦中の米軍との戦闘でゴジラザウルスに命を救われていた(ゴジラザウルスがいなければ日本の経済復興はなかった)という設定になっていた。対して『ゴジラ-1.0』では皮肉にもゴジラザウルスに“見逃してもらった”ことによって、敷島浩一(神木隆之介)が本土に襲来したゴジラを倒すことができ、日本は救われるというストーリーに変換されていて興味深い。

 もう1つはG細胞を彷彿とさせるシーン。G細胞とは、驚異的な再生能力を持ち、放射能をエネルギー化できるゴジラ固有の細胞組織のことだが、それを注入されるとゴジラ的な生命体に変貌してしまう危険性を持っているため、ラストの“首筋”のシーンを観て思わずゾッとした。『ゴジラvsビオランテ』(1989年)ではG細胞の取引をめぐる国家間の緊張関係が描かれていたが、『ゴジラ-1.0』の場合は、人間の欲望が渦巻けば戦争もゴジラもまたすぐにやってくるという現代社会への警告のようにも思えた。中盤では細胞組織を採取する調査団の姿まで描かれており、続編があるなら、G細胞の解明や高度経済成長期に発達した技術力や科学力が鍵になっていくのではないか……と思わせる伏線の用意も抜かりない。こうした過去シリーズからの直接的な引用と新たな解釈は、『シン・ウルトラマン』(2022年)や『シン・仮面ライダー』(2023年)で、同じく過去作への深い愛情を持つ庵野秀明監督が行なったことと近いと言えるだろう。

 そして特に指摘しておきたいのは、ミレニアムシリーズとの共通点だ。『ゴジラ-1.0』のストーリーは「因縁を抱えた個人とゴジラ」の対立が軸になっており、特攻隊の生き残りである主人公・敷島が恐怖やトラウマを乗り越えていく流れになっている。そう聞いて思い出すのは、『ゴジラ×メガギラス G消滅作戦』(2000年)や『ゴジラ×メカゴジラ』(2002年)といった手塚昌明監督が手がけたミレニアム作品たち。表面的にはゲスト怪獣とゴジラが戦う「VSモノ」だが、どちらの作品も戦闘中に自分のミスで上官を死なせてしまい、ゴジラに対してトラウマを抱えた主人公がリベンジを果たす物語になっている。金子修介監督の『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』(2001年)も、ゴジラによって両親を殺された立花泰三(宇崎竜童)が、50年越しに直接対決を果たす映画と見ることもできるだろう(同作は山崎監督もお気に入りと公言しており、『ゴジラ-1.0』でかなり多くのオマージュが取り入れられているため、未見の方はぜひ観比べてみてほしい)。

 また「犠牲を出さない『ゴジラ』」というのは、今思えばミレニアムシリーズの命題でもあった。最も印象深いのは“特攻回避”だ。『ゴジラ-1.0』のクライマックスで敷島が操縦していた戦闘機(震電)は、『ゴジラ×メガギラス』で辻森桐子(田中美里)が操縦したグリフォン、『ゴジラ・モスラ・キングギドラ 大怪獣総攻撃』で立花が操縦した特殊潜航艇さつま、『ゴジラ×メカゴジラ』で家城茜(釈由美子)が操縦した機龍……と、各ミレニアム作品のクライマックスシーンと大いに重なるものだと言えるだろう。

 このように、ゴジラを一個人のトラウマであり、駆逐すべき恐怖の対象として描き直したのは、実はミレニアムシリーズの大きな功績だった。それは前の平成VSシリーズが、ゴジラとゴジラジュニア(ベビーゴジラから成長していくゴジラの同族個体)の親子関係のような描写や、テレパシーでゴジラを感知できる三枝未希(小高恵美)というキャラクターを生み出し、ゴジラの感情に寄り添うように進展していたことへの反動とも捉えられる。つまりミレニアムシリーズは、「VSモノ」としてのエンターテインメント性を担保しつつ、初代のような“恐怖のゴジラ”に原点回帰したシリーズだったと言えるだろう。「初代ゴジラを観た人たちが感じた圧倒的な恐怖の再現を目指した」(※1)という山崎監督が、ミレニアムシリーズ的な「個とゴジラ」の構図に行き着いたのは必然だったと言えるかもしれない。

 また、山崎監督が「人間とゴジラの“近さ”をいかに見せるかに心を配った」(※2)と語っている通り、『ゴジラ-1.0』ではVFXで表現されたゴジラの臨場感が凄まじい。こうした「近距離から見たことのないゴジラを撮る」という意欲的な試みもミレニアムシリーズに通ずる点として挙げておきたい。例えば、『ゴジラ2000 ミレニアム』(1999年)でビルの屋上に立つ片桐光男(阿部寛)とゴジラがじっと対峙するシーンや、『ゴジラ×メガギラス』でボートの真下から浮上してきたゴジラにそのまま乗っかり、ゼロ距離から発信機を打ち込むシーンなどは、今観てもかなり斬新だ。『ゴジラ-1.0』ではそうした近距離シーンのクオリティが格段にアップしており、特にゴジラが木造小型船や戦闘機を追ってくるシーンでは、あれだけはっきり顔を水面に出しながら泳ぐゴジラの姿に度肝を抜かれた。重巡洋艦・高雄との近距離戦も見事である。着ぐるみで撮影されていたミレニアムシリーズ時代には表現できなかった、VFXならではのしなやかでダイナミックな身体表現は、“ゴジラの撮り方”の常識を大きく覆したと言っていい。

 映像面でもう1つ触れておきたいのは、“核兵器の産物としてのゴジラ”を強く印象づけた熱線の描き方。中盤の銀座のシーンで、熱線の被害で大きなきのこ雲が立ち上がり、半径数キロ以内の人々も爆風で吹き飛ばされ、黒い雨が降るという強烈な場面があるが、ここまで“原子爆弾そのもの”な熱線を放ったゴジラはシリーズ初である。いくら撃っても瞬時に再生してしまうゴジラの表皮も、簡単には除去できない放射能そのもののようだった。ゴジラザウルス被曝のシーンもそうだが、映像技術の進化で今まで描かれてこなかったものが描かれた瞬間、一気にその怪獣やキャラクターへの印象が変わることは特撮では少なくない。どんなに頭ではわかっていても、着ぐるみだった歴代のゴジラを“核兵器の産物”として映像的に認識することは難しかった。だが、『ゴジラ-1.0』ではそこを見事に表現してみせることで、観客は身も心も“ゴジラ=核兵器”だと認識できたのではないだろうか。

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