『ザ・キラー』ジャンル映画と社会批評を同居させるデヴィッド・フィンチャーのニヒリズム

 デヴィッド・フィンチャーはシリアルキラーに魅せられているのか? おそらく、イエス。12本の長編映画と3本のテレビシリーズからなるフィルモグラフィを見渡せば、今やアメリカ映画界を代表する巨匠の奇妙なオブセッションを窺い知ることができる。若きブラッド・ピットがキリスト教の“七つの大罪”を模した猟奇殺人鬼に立ち向かう出世作『セブン』。60〜70年代にサンフランシスコ一帯を恐怖に陥れた実在の殺人犯“ゾディアック”を追うキャリアの重要な転換点『ゾディアック』。そして収監されたシリアルキラーたちへのインタビューからFBIの行動心理学が体系化されていくテレビシリーズ『マインドハンター』。しかしフィンチャーが魅せられているのは彼らの狂気よりも、あまりにもストイックな完遂力とそのプロセスだろう。

 『マインドハンター』では各話冒頭、1分にも満たないアヴァンシークエンスにカンザス州パークシティ在住の謎の男が登場する。ひたすらロープの結び目を確認し続けるこの男の正体は、1970〜90年代にかけて殺人を繰り返した絞殺魔“BTK”(Bind、Torture、Killの頭文字から名乗ったと言われている)。フィンチャーはシーズン1全10話を使って、彼の犯行ではなく、来るべき瞬間を待ち続ける準備の過程だけを映し続けた。BTKが逮捕されたのはさらに後の2005年のこと。シーズン5まで構想されていたという『マインドハンター』が、シリアルキラーを通じてアメリカ史を描こうとしていたことが予想される。他にも数々の殺人鬼が登場する本作で、彼らの犯行が再現されることはなく描かれるのは、自らの犯行と準備(そこには不測の事態に陥った際の即興性も含まれる)を語る姿のみ。彼らの多くに共通するのは、他者を絡め取るようなチャームだ。フィンチャーの語り口はまるでプロセスの解明に没頭するかのような熱量だった。

 グラフィックノベルを原作とする最新作『ザ・キラー』は殺し屋を主人公としたノワールに属するジャンル映画だが、マイケル・ファスベンダー扮する名無しの殺し屋(ザ・キラー)はほとんどジョン・ドゥのようだ。数年前にジャン・ピエール・メルヴィル監督、アラン・ドロン主演の『サムライ』を観て以来、同じテイストの作品への出演を希望していたファスベンダーの元に、本作のオファーが舞い込んだという。1音、1呼吸とも無駄のない集中力に満ちたファスベンダーに、アラン・ドロンが見せたハードボイルド映画の主役としてのロマンチシズムはなく、殺人という“労働”の対価を金で得る不気味さがある。冒頭、廃オフィス(先頃、ようやく破産が報じられたWeWork)で向かいのアパルトマンに現れる標的を待つ彼は、日記に書き留めるかのように自らの思考を傍白する。「計画通りにやれ。同情は不要。即興はやるな。対価に見合う戦いにだけ挑め」。多くのシリアルキラー同様、この男も多弁で、実に熱心であり、そして奇妙なユーモアセンスを持っている(実在する連続殺人鬼ゲイリー・リッジウェイの“仕事”ぶりに感服したとも述べている)。

 フィンチャーは“仕事に失敗した殺し屋が命を狙われる”という定番プロットの本作において、決行よりもプロセスに執着していく。シリアルキラーにとってありとあらゆる場所に張り巡らされた防犯カメラはやっかいな代物ではあるが、仕事をより厳密に、素早く推し進める“システム”は万能ともいえる力だ。クレジットカードが死ぬまで隠し倉庫の金を払い続け、指紋認証はいかなる時も万全の錠前となる。マクドナルドが必要最低限の栄養補給を約束し、都市のあちこちに配されたシェアスクーター、仕事道具を手早く届けるAmazonの私書箱が匿名性を担保する。待て、そもそも金はどこから出ているんだ? 株価の凝視に明け暮れる投資家が、価値もわからず殺しに投資をしている。

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