『劇場版アイドリッシュセブン』から“推し”文化を考える ライブアニメが持つ演劇性

「推し(活)」を視覚化する『劇場版アイナナ』の細部

 こうした「音楽アニメ」や「ライブアニメ」が台頭してきた背景などについては、過去のコラムなどでこれまでにも論じてきた。むしろ、今回の『劇場版アイナナ』の演出が如実に示していたのは、それに加えて、繰り返すように、「推し」という現代的な感性や行動様式の本質を視聴覚的に具現化するディテールだったのではないだろうか。

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 例えば、今回の『劇場版アイナナ』はーー多くのライブアニメと同様にーー大別して、おおよそ2つのシーンの対比から成立している。いうまでもなく、一つは七瀬陸(声:小野賢章)をはじめとするステージでパフォーマンスするアイドルたちのライブシーン。そして、もう一つはライブ会場の真っ暗な観客席で色とりどりのペンライトを振りながら歓声をあげて応援するマネージャー(『アイナナ』ファン)たちを捉えたシーンである。

 映画(ライブと記すべきか)のオープニング、真っ黒い画面のスクリーンに無数の色の光が浮かび上がり、それらが徐々に小さくなっていくと、それがドローンのように真上に上昇しながら捉えられた観客席のペンライトの動きだったことがわかってくる。そのまま流れるように動く視点は、無数のペンライトと歓声が包み込む広大なライブ会場の全景を示す。その後、満を持して各グループのライブが始まる。

 カメラはいわゆるバーチャルカメラシステムを駆使して、360度あらゆる方向から歌唱するキャラクターたちを映し出すが、基本的には、ライブを観覧するオーディエンスの視点に合わせるかのように、正面、少なくともステージの縁を軸とした180度のラインのどこかの位置から彼らを描く(実際、ライブを観ているオーディエンスに同一化するようにやや仰角アングルから彼らを映すカットも目立つ)。

 そして、何より重要なのは、楽曲間にインサートされる彼らのMCシーンだ。16名のアイドル一人ひとりがステージ上のメンバーたちとざっくばらんに戯れ合い、また観客席ーーひいてはスクリーンの向こう側にいるファンたちに向かって語りかける。そして、それに呼応するようにスクリーンからはーーそして、応援上映などの際には実際の映画館の観客席からもーーオーディエンスたちの呼びかけや歓声が聞こえてくる。

 ともあれ、こうした『劇場版アイナナ』のディテールの数々は、モーションキャプチャとバーチャルカメラシステムによる映像表現とも相俟って、確かに、まさに「いま・ここにキャラクターたちが現前presenceしている」という「ライブパフォーマンス的」な感覚やリアリティを観客に強烈に与えてくれる。もっと踏み込んで言えば、アニメーション映画というよりも、これも現在の「推し」文化の中核の一つをなす2.5次元ミュージカルを観ている感覚に近い。少なくとも、通常の映画やアニメのような、何らかの現実の被写体や意味を記号(実写映像や絵)によって媒介しているという「表象representation」の感覚は本作に関してはいたって希薄なのだ。

「推し」論のパラダイム

 以上のような『劇場版アイナナ』の映像は、監督の錦織と山本の企図はともかく、少なくとも現在、さまざまなところでいわれている「推し(活)」の本質をめぐる議論と明らかに視覚的に響き合っている。

 例えば、さしあたり2022年に話題になった心理学者の久保(川合)南海子の『「推し」の科学ーープロジェクション・サイエンスとは何か』(集英社新書)を参照してみよう。自身も「推し活」の当事者だという著者の久保(川合)は認知科学の「プロジェクション」という最新の概念を援用しつつ「推し活」の本質を科学的に考察している。その時、「推す」行為の本質だとして彼女が強調するのが、「自分だけでも対象だけでも成立しない、それらの『関係性』」(30頁)である。つまり、受容する側が「その対象をただ受け身的に愛好するだけでは飽き足らず、能動的になにか行動してしまう対象が『推し』である」(19頁)と。久保(川合)によれば、「推し」とはファンが憧れる対象に対して「能動的になにか行動してしまう」「関係性」の志向(指向)がその本質にあるというのだ。

 そして、おそらくこれと同様の見解をよりコンテンツに即して言い換えて表現しているのが、ポピュラー文化研究者の須川亜紀子の議論である。アニメーション研究のみならず、ここ数年では、『2.5次元文化論 舞台・キャラクター・ファンダム』(青弓社)など、いわゆる「2.5次元舞台」研究でも知られる須川は、2.5次元舞台の持つ特徴を、スターとファン、あるいはファン同士の活発なコミュニケーションが不可欠なものとして成り立つ「参加型文化」だと要約する。

 日本ではいまや複数のメディア・プラットフォームでのコンテンツの展開が常態化しており、[…]そして、そこに二次創作、SNSでの発信、イベントの参加などを通じて、コンテンツに積極的に参与するファンたちの存在は非常に大きい。二・五次元舞台を支えているのは、そうしたファンたちであり、ファンの文化実践である。こうした「参加型文化」が、二・五次元舞台には顕著である。
(須川亜紀子「参加型文化としての二・五次元舞台ーーウィズ・コロナ時代の模索」、石毛弓編『コロナ禍と体験型イベント』水声社、60-61頁)

 すなわち、「演者と観客の一種の共犯関係」(64頁)が2.5次元舞台の核にあると須川はいう。この須川の2.5次元舞台に関する指摘が、対象に対して「能動的になにか行動してしまう」ものという「推し」に関する久保(川合)の指摘とほぼ正確に呼応していることはもはや明らかだろう。

 そして、他ならぬ私自身も、彼ら以前に、実はよく似たような議論を展開したことがある。

 まさに「リアルサウンド映画部」での連載を元に上梓した拙著『明るい映画、暗い映画 ー21世紀のスクリーン革命ー』(blueprint)で私は、「推し」を「親近性、対象との距離の近さの感覚」(95頁、原文の傍点は削除)を含意する言葉とみなし、その時代精神を「『高さ(超越性)の喪失』自体の喪失」(101頁)と結論づけた。そして、須川も触れているように、そのメディア的な背景には、明らかにツイッターをはじめとしたSNSの普及がある。(実際に、2.5次元ミュージカルの伸長期はSNSの社会的普及の時期と重なっている)。以下、少々長くなるが、該当箇所を引用する。

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[註:ヘンリー・]ジェンキンズや須川も強調するように、2000年代後半のSNSの普及以降、一方で、ぼくたちはかつては遠い存在だったハリウッドスターや各国の首脳に気軽にメンションを送れるようになり、また他方でパッケージ販売に代わってアイドルの握手会や舞台を典型とするライブエンターテインメントが盛り上がった。それらはひとことでいいかえれば、ぼくたちの文化消費の感覚からあらゆる「距離」(深さ、高さ、広さ)を失わせる動きだった。YouTuberも声優も、地下アイドルもオンラインサロンの主宰者も、伸ばせば手が届くところに近づけられる。それらはいまや、かつてと比較すると、まさにフラットに「密着」可能な存在になっているのだ。[…]
ぼくはとりたててスター研究やファンコミュニティ研究を専門としているわけではないけれども、たとえば、そもそも昨今用いられる「推し」(「推す」)という言葉にも、そうした性質が顕著に表れているように感じるときがある。[…]ぼくがこの「推し」や「推す」という言葉の語感から感じるのは、その親近性、対象との距離の近さの感覚である。そして、その近さは、第一に、横のつながり=ファン同士の近さ、そして第二に、縦のつながり=「推す」対象との近さの両方を含んでいる。まず、いうまでもないことだが、「推す」とは本来、「推薦する」=同じ対象を愛好するファン同士のあいだのコミュニケーションの意味を含意しているだろう。[…]
さらに、「推し」という言葉の語感は「押し」にも転化し、どこか自分が憧れる対象への「接触可能性」(押せること)のニュアンスを含ませてもいる。憧れている存在ではあるけれども、同時に自分自身もさまざまな手段を通じて彼/彼女の活動に何らかの影響を与えることができ、推す=押す気になれば推せる(=押せる)という確かな信憑を感じられるーーそういう存在に、ファンが消費する対象が変容しつつあるように思われるのだ。
(前掲『明るい映画、暗い映画』、93-96頁、傍点削除のほか、一部文章を省略)

 ここで私が敷衍する「推し」の本質が久保(川合)や須川の示すそれとほとんど同じものであることもいうまでもないだろう。

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