小芝風花主演ドラマ『波よ聞いてくれ』をアニメ版と比較 演出や展開の大きな違いは?
『月刊アフタヌーン』(講談社)で連載中の沙村広明による漫画『波よ聞いてくれ』が2020年にアニメ化された時、作品の真価がさらに煌めいたように感じた。原作でも発揮されていたセリフの臨場感が、音声を持った動画という媒体によってより強調される。そして、3年の時を経て本作は主演に小芝風花を迎えて実写ドラマ化された。
福岡出身のクズな元彼に50万を騙し取られた主人公の鼓田ミナレ。彼女がひょんなことをきっかけにFMラジオ放送局でラジオDJとして奮闘することになる物語は、原作からアニメ化、そしてドラマ化された中でそれぞれどのように描かれているのかを考えたい。
演出の違い
原作、アニメ、ドラマに共通して言えるのが、“言葉の多さ”だ。とにかくセリフが多い。それらの言葉に声が吹き込まれる感覚は、雲田はるこ原作の『昭和元禄落語心中』が同じようにアニメ化、そしてドラマ化された時のものに近い。考えてみれば、作品の性質もメディアの展開の仕方も似ているように感じる。
アニメ版はセリフも含めて、物語の展開も基本的には原作に沿っていた。しかし、第1話では大きな挑戦をしている。突如始まる、ミナレとヒグマの戦い。このエピソードは本来もう少し後に登場するのだが、“映像”であるアニメとして大きなインパクトと“混乱”をもたらすことに成功した。彼女はヒグマと向かい合う間、リスナーからのお便りを読み、その場を実況中継するのだが、これが長く続くので最初は一体何事かと思う。しかし、勘のいいリスナーもとい視聴者にはそれが“架空実況”であることがわかってくるのだ。この仕組み自体が、後のエピソードでも取り上げられるようなオーソン・ウェルズ仕込みのドッキリと重なり、映像がないからこそ騙せていたはずの部分にあえて映像を作ることで、ラジオの面白さや強みを強調する演出になっている。
この“架空”の映像化はその後も幾度かあるが、物語的にミナレがマイクの後ろに立つことの方が画としても重要になってくるため、ブース内で話している描写が多い。
一方、実写ドラマ版は、原作と同じようにミナレが飲み屋で円山ラジオ局(MRS)のディレクター麻藤に絡むところから始まる。しかし、冒頭ではテープやロープ、そして包丁を取り出して「殺してやる」と呟くミナレの姿が一瞬だけインサートされていた。これもエピソードとしては、正式デビュー戦で放送事故を装った架空実況「自分を裏切って逃げた男をたった今殺してきた女」として後に登場するもので、狙いとしてはアニメ版と同様、視聴者をミスリードすることだったように思える。しかし、架空実況はすでに殺してきた後なので「道具を用意する」描写そのものの意味は、彼女の元彼に対する殺意の表現だとしても少しチグハグだ。
そんなドラマ版はセリフに関する変更や、出来事の順番の入れ替わりが多い。これはアニメ版にも、いや、どの漫画原作の映像化においても共通して言える「話数の制限の中でどこにクライマックスを持ってくるか」問題があるから仕方ないことではある。ミナレの住むアパートの住民に起きた事件のエピソードも、アニメとドラマでは原作よりも早い段階で登場した。やはり強いインパクトの物語を早めに出すことで視聴者に興味を持たせ続けることは、演出として大事なのだ。とはいえ、ミナレの元彼「光雄」との再会にまつわるエピソードは、ドラマ版では早々に登場かつ大幅なカットがあったため、本質的にあまり多くを語ることに成功したとは言い難い。
そもそも原作およびアニメでは、光雄がミナレに連絡をしたのは先述の「男を殺した女」の架空実況が流れていた時に“たまたま”今の彼女に刺殺されそうになっていたことが肝心なのだ。それを聞いて、まるで自分の話のように感じた女が気味悪がり、光雄は一命を取り留めた。そのお礼として彼はミナレに連絡をするのである。そして、自分の財布から一銭も出さなかった彼がデート代を出したり、死にかけた話を聞いたりして、「人は死線を潜ることで生まれ変わるのか」とミナレも考えてしまう。だから、その後に光雄の家に行ってしまうのであって、この一連の流れがなければキャラクターの心情変化や、それに伴う行動に辻褄が合わないのである。
正直アニメが放送された頃は、原作が7巻まで発売されていたが、ドラマ放送時には10巻まで世に出ている。その10巻分をドラマにまとめるのか、先述のようにどこにクライマックスを設けるのかは非常に難しい問題なので、一見実写化に向いていそうな題材の作品であっても、やはり大変なことは大変だ。物語にもキャラクターにもアレンジを加えていく必要が、どこかで必ず生まれるのだろう。しかし、原作が提示した物語の意味を大切にすることの重要性も忘れてはいけない。