『ネットと朝ドラ』木俣冬×成馬零一特別対談(前編)

“批評”から“考察”の時代、書き手に求められるものとは? 木俣冬×成馬零一特別対談

SNS上の空気によって作品の評価が決まってしまう時代

成馬:現在のようにWeb媒体がドラマ記事を扱う前は、基本的には雑誌に役者のインタビューが載っていて、ときどき変わった切り口の記事やクリエイターインタビューが『TV Bros.』や『Quick Japan』に掲載されるという感じでした。それがWebの時代になると、ライトな切り口のものもあれば読み応えのあるものも書かれるようになった。毎日更新するリアルサウンドのようなWebのカルチャーサイトとドラマレビューの相性がとてもよかったのだと思います。何よりSNS上で視聴者が自分の感想をリアルタイムで発信できるようになった。だからかつての雑誌ベースのときのドラマの語り方と、ネット時代の語り方は全然違うものになりました。

木俣:ネットがベースになってからは、求められるものが“ファン目線”に変わりましたよね。朝ドラ放送後の定番になっている『あさイチ』(NHK総合)での“朝ドラ受け”もMCの方々が、いちファンとして感想を言ったり反応していたりすることを視聴者が楽しみにしている。私が毎日レビューを続けていられるのも、作り手の方々とファンの皆さんの間を少しでもつなぐことができていたからなのかと思っています。プロのライターとして作り手の思いをすくい取る部分と、ファン目線で作品を見つめる部分と、どちらも分かります、という点において、今もドラマについて書くライターとして生かされているのかなと感じています。昔はナンシー関さんのような、関係者とは関わらず、歯に衣着せないでズバズバと対象を斬っていくスタイルが格好良かったじゃないですか。でも、今は多分、Twitterでもフォロワー数が多く、影響力の高い匿名の方などは、斬るより褒めるタイプが支持されていますよね。

成馬:僕自身のスタンスとしては、ファン目線で書くことはできないので、どちらかというと、ナンシー関さんの側だと思って書いています。執筆拠点こそWebですが、意識としては雑誌文化の末裔で、劇中に散りばめられた謎を解いていくような記事も書けないので、年々、時代に付いていけなくなっている。繰り返しになりますが、それが2017年問題なんですよね(笑)。現在は、“批評”という言葉が死につつあるじゃないですか。その代わり浮上しているのが“考察”という言葉で。

木俣:「私はこう考察した」「私はこう思った」だから、正解は特にいらないという感じがしますよね。成馬さんはドラマ評を書く時はどんなことを大事にされているのですか?

成馬:作り手の意図やその作品が生まれた時代や社会を読み解いていくというベタな作家論ですかね。今、一番鬱陶しがられている語り口ですが、映画や小説では当たり前に存在している批評をドラマでもちゃんとやりたいという気持ちは今もあります。例えば、『ひよっこ』なら過去の岡田惠和作品と比較しながら読み解くのですが、この作品は、岡田さんが劇中で描いていないことが面白いんですよね。みね子の父・実(沢村一樹)は記憶喪失になって失踪し、最終的に家族のもとに戻りますが、その間に女優の世津子(菅野美穂)と疑似家族になっていたわけじゃないですか。2人がどんな生活を送っていたかは直接描かれていないですけど、“良い話”の裏側にそんな人間の業が描かれているのが本作の恐ろしさで。岡田さんは『銭ゲバ』(日本テレビ系)や『ドラマW そして、生きる』(WOWOW)など、人間のダークサイドについても多く描いている作家なので、一見、光だけの話を描いているように見えても、実は闇の部分も隠し持っている。だから、表には出ない部分をどう読み解くことが、自分の役割ではないかと考えてます。

木俣:それこそが正統派なドラマ評論なのではないでしょうか。『ネットと朝ドラ』ではテーマがネットでもあったので、作品ごとの分析もしつつ、それをメインにはしないで、私自身もネットの中にいる視聴者の1人なんだという眼差しで、オンエアされた時代の空気をできるだけ残すようなライブ感のあるものを目指しました。ただ、それだけをやってしまうと、視野の狭いものになってしまうので、取材したものも加えて事実もきちんと伝えると。私がフラットに観て感じたことと、一次情報を並列に扱うことで、読者の方にもまた新たな発見をしていただけるのではないかという思いでした。「みんなで楽しむ」がベースにあるような「3.0」の時代だと、批評を批判と捉えられてしまうことが多いのが非常に難しいところですよね。その意味では、私たち書き手にとっては「2.0」の時代が一番幸せな時代だったと思うんですよ。

成馬:そうなんですよね。『ネットと朝ドラ』で特に共感したのが『おかえりモネ』の章に書かれていた「自分の気持ちを言えなくなっている人が多くなっているんじゃないか」という点で、自分も「そういう気持ちになっている」と思いました。ドラマレビューを書くと、肯定派か、否定派かとレッテル張りされて、都合のいいアイコンにされてしまうことが近年特に増えている。良い部分も悪い部分も書いているつもりでも、一部だけを拡大解釈されて拡散されてしまうので、昔のように気軽に書くことができなくなってしまいました。

木俣:10年ほど前は、もう少しいろいろと好きに書ける時代でしたよね。

成馬:ドラマは全ての要素が褒め称えられるような作品でなくてもいいと思うんです。『半分、青い。』も賛否両論ありましたけど、作品の空気や時々合わないなと思うことはあっても、作品の向こう側に北川悦吏子さんという作家がいて、対話しているような手応えがあったから、僕は好きだったんですよ。批判が多かった『純と愛』もそうで、好き嫌いを超えたところで、遊川和彦さんが投げてくる剛速球を「ちゃんと受け止めなければいけない」という緊張感があったわけです。

木俣:そうですね。『半分、青い。』は北川さんの歴史があった上での物語です。彼女が背負ってきたいろいろなものが主人公に投影されていて、そこから普遍性が生まれることもあるけれど、「みんなのものとして、みんなで一緒に楽しむ」スタンスとはやや距離が出てしまうとは思うのですが、成馬さんがおっしゃっていたように表と裏を読み解く楽しさはありますよね。

成馬:その点でいうと、本書でもトピックとしてご指摘されているように、北川さんはTwitterの使い方も良かったと思います。作者本人が放送に合わせて実況をしたり、見どころを書いたりすることで、視聴者と“対話”ができていたわけじゃないですか。作品を好きではない、極端に言えば観ていなくても、作品と視聴者との相互関係の向こう側に、作者がいるという手ごたえがあったので、あの使い方は有りだったなと。ただ、『半分、青い。』の頃からさらに時間が経って、今はみんなが考える正しい朝ドラに縛られていて、この状況に息苦しさを感じます。

木俣:視聴者の方々にTwitterで突っ込んでもらえるものを作らなきゃいけないみたいなことが、朝ドラの1つの課題になったかのような雰囲気をこの数年感じています。

成馬:作者の顔が年々、見えづらくなってきている。

木俣:そうですね。『なつぞら』は朝ドラ100作目の記念作ということで、北海道にアニメに演劇にお菓子、さらには歴代ヒロインが出てきたりと、“戦略”が盛りだくさんな作品でした。プロデューサー、宣伝の方々が頑張った証だと思いますし、それも楽しさのひとつだったと思うんです。ただ、作家としてはひとつのテーマに絞って作っていくというのはなかなか難しいものだったと思いますし、かつてのような自分の色を出しづらい環境にはどうしてもなっていきますよね。

成馬:次々と供給される膨大な情報をSNSで楽しむものになっている。出演俳優や劇中の時代に関する豆知識的な情報を消費することが、本編と同じかそれ以上にイベント化してるんですよね。それだけ朝ドラが巨大コンテンツになってしまったことの表れだと思うのですが、その結果、作家性が出しづらくなっている側面はあるのかもしれない。

木俣:『カムカムエヴリバディ』は物語性も高かったうえに、さまざまな視聴者のニーズに向けて作って成功したと思います。ヒロインを3人にして、時代も3つに分けて。戦前〜戦後の流れをじっくり観たい方は安子(上白石萌音)編、演技巧者な役者陣による映画的サブカルの匂いもする物語が好きな方はるい(深津絵里)編、現代へとつながる元気ハツラツな女性の物語が好きな方はひなた(川栄李奈)編と、どの時代にも異なる魅力があったのが『カムカムエヴリバディ』の凄さであり、多くの人を夢中にさせた理由だと思うんです。ただ、要素を分ければいいかというとそうでもなくて、『ちむどんどん』は四兄妹で四つの物語を描こうとしたら、一人ひとりがぼやけてしまった気がします(笑)。スピンオフで補完してましたけれど。

成馬:『ちむどんどん』は序盤で観るのを止めてしまったんですよね。作品を取り巻くSNSの反応を観るのがしんどくて。毎朝、「#ちむどんどん反省会」がTwitterのトレンド入りしていましたが、いつの間にか本家タグよりも盛り上がるようになってしまった。そこに対抗するように反発する人や作品を擁護する人も出てきて、作品の評価を巡っていろんな人が反目しあい、Tweetが殺伐とした空気になっていて、正直かかわりたくないなぁと思った。前作の『カムカムエヴリバディ』でもこれは起きていて、どんなにポジティヴな評価の作品でも、あるセリフ、あるシーンのひとつ、ジェンダーの描き方の問題などで、必ずネットで論争が起きるんですよね。そのやりとりをずっと見ていたら鬱になるというか、関わるのはしんどいなと思って逃げました。『舞いあがれ!』はそれなりに好きで追いかけてますが、SNS上にある朝ドラの感想は極力見ないようにしています。

木俣:『舞いあがれ!』はツッコむような作風ではないはずなのに、ともすれば反省会を開こうとする不思議な流れを感じますが、ツッコむこともそんなにないからそのブームも沈静化してほしいですね。反省会タグもそもそもは批判的な意見を、楽しんで観ている人に見せないためのものだったのが、批評や疑問を多くの人にアピールするためのものになってしまっていますよね。さらにTwitterで話題になったネガティヴな話題を切り取って記事にするメディアも出てきて。

成馬:間接的な批判記事はすごく増えましたよね。SNSにあるネガティブな発言を抜き出して「ネットのみんながSNSで怒っている」とまとめ上げることで正義感を煽っている。

木俣:ネガティブな使い方がこの数年でものすごく育ってしまいましたね。

成馬:ネットニュースもどこが引用元なのかわからないものも多くて、一つの記事を開いたら「~と〇〇は報じている」という孫引きの記事が出てくるなんてことも多い。そうした積み重ねによって、作品の評価を決まっていく構造がすでに出来上がっている。昔は低視聴率=駄作という評価だったけど、今は漠然としたSNS上の空気によって作品の評価が決まってしまう。朝ドラはほかのドラマと比べても、それが起きやすいコンテンツになっていっているような気がします。だから、Webニュースも、以前より見る機会は減りました。

恐ろしい朝ドラの視聴習慣

木俣:震災の時、つながらない電話の代わりにTwitterは、お互いを心配し合うするようなツールでした。『みんなの朝ドラ』でも書きましたが、私自身も原稿を書きながら、Twitterでなんでもないコミュニケーションを取ることですごく励まされました。いま大丈夫ですか?とか、地震の影響ないですか?とか、助け合いの雰囲気があった。その一環で、同じドラマを観て楽しかったねと言い合ったり、あの人もいま、同じドラマを観ているんだなと気づいて嬉しかったり。でも、いまはそんなほのぼのした雰囲気はなくて、自分の意見をガンガン主張していくものになったというか。自分の気持ちを吐き出せない人が増える一方、自分の気持ちを主張する人も増えたというのがこの数年だと感じています。そんな中からこれまでとは違うドラマ・映画の批評をできる方が出てくる可能性もあると思うのですが、どうしても承認欲求のためにやっている人も増えたような状況ですよね。

成馬:SNSにいる人たちって承認欲求がある割に、書き手としての顔が見えないですよね。ブログが中心の時はまだ書き手の顔が見えた。反省会タグを書いている人の中から、すごく個性的な書き手が出てきたら面白いけど、そういう気配は今のところないですし。

木俣:自分の名前を出すことは意見に責任を持つことです。そこまではしたくないのかな。

成馬:反省会タグに書き込んでる人って、あんなに批判してるのに、ずっと朝ドラを観続けているのが不思議なんですよね。ドラマって何話か観て駄目ならどんどん切っていくのに、批判しながらも観続けてしまう朝ドラの吸引力って「何なんだろう?」と考えます。

木俣:やっぱり恐ろしい視聴習慣なんでしょうね。私も毎日レビューをもうやめられないのと同じですよね。実は、何度か、やめようと思ったことがあります。扱わないということがひとつの批評であるという意味で。斬るやり方ができにくい今、必死に斬って、自分が傷ついていくよりは書かないことを選ぶほうが安全です。

成馬:「観ない」という選択が、やっぱり1番きついですか?

木俣:観ない、語らないというのが本当の批評だと思います。私の場合は一作一作というより「朝ドラ」をまるごと見届けたくなってしまって。昭和、平成、令和と続いているのってすごいことですから。こういう感覚が今、大なり小なり多くの人にあるように感じます。ネットは手軽に参加ができるんですよね。それも『ネットと朝ドラ』に書きましたけど、この数年、コロナ禍で家にずっといるようになって、娯楽もなくなって、人とも交流できない時に、朝ドラに限らずドラマを観て語って遊ぶしかないということもあったのかなとは思います。とくに朝ドラは観てる人も多いし、記事も多く出るし、毎日やっているし、15分という短さだし、内容も難しくないし、で参加しやすいのではないでしょうか。

■書籍情報
『ネットと朝ドラ』
著者:木俣 冬
発売日:2022年9月12日
仕様:四六判ソフトカバー/376ページ
定価:2,750円(本体2,500円+税)
出版社:株式会社blueprint
発売元:blueprint book store、全国の書店・ネット書店
blueprint book store:https://blueprintbookstore.com/

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